日記 ー モノローグにならないように

電車の広告を見ただけで、何日分かのブログを書けるのは思い出すものが多くなった、つまり年をとったということなのだとつくづく思うこの頃です。


さてあのIKEAの広告を見て東南アジアのラタンの家具を思い出したのですが、そこからまだまだ回想は続いて、最終的に思い浮かんだのは「日記はモノローグにならにように」ということでした。


読んでいらっしゃる方には、全然脈絡もない話ですよね。


年をとるとうんちくや説教のようなことが多くなるのは、ひとつのことでもつぎつぎと思い出があふれてくるからかもしれません。
どうぞ、ご容赦くださいませ。


犬養道子さんとの出会い>


24歳の時に、初めて海外医療援助に参加しました。
その頃の私の背中を押したのが犬養道子さんとの出会いであったことは、私とニセ科学的なものについてのあれこれで書きました。


犬養道子さんを描いたドラマが1978年にあったようですが、その頃テレビは全く観ていなかったので、犬養道子さんを知ったのはおそらく20歳の頃に書店で偶然本を手に取ったからではないかと思います。


最初に出会った本がどれだったかも思い出せないのですが、1990年代に入るまでは全ての本を探して読みました。
残念ながら、ある時期に身辺整理のために犬養さんの本も含めて一気に本を処分してしまいました。


海外医療協力に飛び出していくぐらいですから何かと活動的で勇気があるようにみえるかもしれませんが、当時の私は強がっている反面、生きるのが怖くて仕方が無かったのではないかと今になると思えるのです。


怖かったからニセ科学的なものにもあれこれ惹きつけられたのでしょうし、自分を強く見せたいと思ったのではないかと思います。


犬養さんの著書は、キリスト教的な考え方で貫かれているといえます。
それは宗教的な教義というよりも、自己と他者との関係をつねに意識させるものでした。


それまで私の人間関係は、親子、祖先、教師や上司・先輩あるいは友人という縦や横の関係だけでした。
そうではなく、神と自分、神と他者と、全て一旦神との関係を考えることが、私の気持ちを解放させるものだったのです。


この場合の「神」は想像上の神でもなく、崇めるための神でもなく、人間という存在を相対的に考えるための存在とでもいうのでしょうか。
言葉を変えれば、「完全」(神)に対して不完全な人間としての自分を認識することとも言えるのかもしれません。


今日は宗教的な話が目的ではないし今の私は宗教とも少し距離を置いて生きていますが、犬養道子さんの神を介在した自己と他者の考え方は大きく私の中に生きつづけているように思います。


<犬養さんの本からのメッセージ>


犬養さんの本のどこに書かれていたのかも思い出せないのですが、当時生きるための勇気を求めていた私を力づけた文章がいくつもあります。


こちらのコメントへの返事に書いた話もその一つです。

彼女が小さい頃、お手伝いさんから「走ってくる汽車を真正面からみたら怖いでしょうけれど、横から見たら楽しいものにも見えるでしょう」というたとえで物事を多角的に見ることを教えてもらった。

この場合の汽車というのは、蒸気機関車のことです。
モクモクと黒煙を上げて迫ってくる汽車を真正面から見たら怖いけれど、横から見たらそこには旅行を楽しんでいる乗客も見える、という話だったと思います。


何か乗り越えなければいけないことに直面した時には、いつもこの話を思い出すのです。


この話にはもうひとつ大事なことがあります。
このお手伝いさんというのは、犬養道子さんの祖父、あの暗殺された犬養毅元首相がとても頼りにしていた人であったことのエピソードとして書かれていました。
「あれ(お手伝いさん)は、何かを持っている」と、犬養元首相は何かにつけ重用していたようです。


尋常小学校を出ただけですが、学はなくても何か本質的なことを見極められる能力があったのでしょう。
そういう人になりたいと思うとともに、学歴や社会的立場、あるいは容貌や外見に惑わされずに相手を大事にできる犬養道子さんのお祖父さんのようにもなりたいと思ったのでした。


道はまだ遠いのですが。


<「日記はモノローグにならないように」>


さて、今日のタイトル「日記はモノローグにならないように」ということも、どの本に書いてあったのかもわからないため、記憶違いもあるかもしれません。


モノローグはあちこちの辞書でもおおよそ以下のように説明されています。

1.演劇や登場人物があいてなしにひとりで言うせりふ。独白(どくはく)
2.一人の俳優が演じる芝居。独演劇。モノドラマ。


このブログは「はてな日記」とはついていますが、ブログのように公開する目的がなければそもそも日記というのは独り言ではないかと思います。


「誰々にこう言われて悔しい!」とか「悲しい」とか、感情を書き綴ることで気持ちの整理になる場合もあるのではないかと思います。
犬養さんの本に出会うまでは、日記とはそういうものと思っていました。


ところが犬養さんは歴史上の重要人物のいくつかの日記を紹介して、「日記はモノローグにならないほうがよい」と書いていました。


ある人は、その日に購入した物品の値段だけが淡々と綴られていたそうです。
何十年後に読み返した時に、不思議とその値段をみただけで当時のことが思い出されてくると、その日記を紹介していました。


犬養道子さんは感情を書き綴るのではなく、事実を書き留めることをよしとされていました。


感情を書き留める場合にも、できるだけ事実だけを書き残すようにしたほうがよい、と言う内容だったと記憶しています。
「誰々にこういわれた。だから腹がたった」ではなく、淡々と「誰がこういった」「それに対して自分はこう感じた」とあくまでも客観的に記録するとよいと。


それはなぜでしょうか。
たしか、犬養道子さんはこのようなことを書かれていたと思います。
「モノローグになると、それは自分がかわいそう、自分が大変といった自己憐憫の気持ちが大きくなってしまい、相手のことが見えなくなる」


だから日記という人には見せることのない文章でも、できるだけモノローグにならないように、事実だけを書くように努めることで客観的視点を養うことにもなる。
そんな話だったと思います。


それ以来、私も感情を書き綴ることは止めました。


私の日記代わりになっているのが、毎日の行動とその日に入院していた方々の名前と緊急手術や搬送などを記録した手帳と、分娩介助した方の分娩経過を書き写した分娩記録ノートです。


何年も前のことなのに、その箇所をみるとその日の様子がふと思い出されてきます。
当時、自分が何を感じていたのかも含めて。


まぁ年のせいか、反対に直近の記憶がちょっとあやしくなってきましたが。



そうそう、IKEAの広告→ラタンの家具→東南アジアで働いたこと→犬養道子さんの本が海外医療援助のきっかけになったと思い出して、ふとこのタイトルが思い出されたのです。


今でもまだ私自身の中に正義感に走りそうになる部分があります。
自分で書くのもなんですが、20代の頃には加えて感情面でとてもナイーブでした。
まず感情で反応し、相手に共感してのめり込んでいくところがありました。


この「日記はモノローグにならないように」という一言に出会わなかったら、今頃もっと感情的で、独善的に正義感に突っ走っていただろうと思っています。




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