境界線のあれこれ 21 <ノンフィクションとフィクション>

1990年代は、私自身が「自然なお産」に傾倒していました。
「手を出さずに待てばたいがいのお産は無事に終わる」という考えに強く影響を受けていました。


そのような時期に吉村昭氏の本に出会ったことが、もしかしたら私を引きとどめてくれたのかもしれないと思っています。


吉村昭氏自身が大学生の頃に重症の結核にかかり、生きるか死ぬか一か八かの手術を受けて九死に一生を得て、その後の長い小説家としての人生を与えられた人でした。


その手法は、歴史事実を掘り起こすとでもいうのでしょうか。
文献をあたり、人にあって直接話を聞き、そして全体像を描き出す。
そんな感じでした。


たとえば、世界で初めて内視鏡を開発した医師と会社の人たちを描いた「光る壁」もそうでした。
この本を私が読んだのは1990年代ですから、すでに内視鏡は珍しくもない検査でした。
ところが、その内視鏡ひとつにもこんなに多くの人たちの長い間の努力と試行錯誤があった。
あるいは何も検査や治療ができずに亡くなっていく人への無念の思いが、こうした新しい技術の影にあった。


それまで私自身が途上国と日本の医療の差を実感してきたはずなのに、日々、医療の現場にいると「足りないこと」ばかりが目に付いてしまい、少し前の時代さえ思い浮かばなくなっていました。


吉村昭氏のこの作品は私の心に、医学史や医療史への関心を刻み付けてくれた本の一冊だったのかもしれません。


吉村昭氏の作品の特徴は、wikipediaの<作風>で以下のように書かれている通りだと思います。

地道な資料整理、現地調査、関係者のインタビューで、緻密なノンフィクション小説(記録小説と呼ばれる)を書き、人物の主観的な感情表現を省く文体に特徴がある。

フィクションを書くことを極力避け、江戸時代のある土地の特定年月日における天気までも旅商人の日記から調査して小説に盛り込む、ということまで行っている。


圧巻だったのが、「三陸海岸大津波」(1970年)でした。
高台に逃げる一人一人の鼓動が聴こえるような臨場感、海岸に積み上げられた亡骸への想い、絶望感、まるで自分がそこにいるかのように苦しくなるものでした。
2011年3月11日、大きな揺れの直後にテレビをつけた時に目に飛び込んできた状況に、私は吉村氏のことを真っ先に想い浮かべたのでした。


小説家ですからフィクションでも構わないのに、なぜ「徹底した史実調査」にこだわり、「フィクションを書くことを極力避け」たのでしょうか。


wikipediaの説明にある「死をテーマにした緻密な光景描写」、吉村昭氏の作品にはまさにそれが根底にあるのではないかと今、思い返しています。



<ルポタージュの時代・・・1980年代>


1980年代から90年代にかけては「事件や社会問題などを題材に緻密な取材を通して事実を客観的に叙述する」ルポタージュの分野で活躍する人が増えた時代ではなかったかと思います。


私は小説よりもむしろこうしたルポタージュの方が好きでしたし、当時は吉村昭氏は私自身の中では「小説家」の位置づけでした。


でもこうして思い返すと吉村昭氏の作品のほうが、小説というよりもむしろノンフィクションのルポタージュと言えるのではないかと思えるほどに、「事実」が感じられるのです。


特に1980年代以降、「自然なお産」の流れで、昔の出産や昔の産婆さんの聞き語り的なものが出版されていきました。
そういう作品を描かれた方々も、「地道な資料整理、現地調査、関係者のインタビュー」をされて書かれたのだと思います。


でもそれらを今読み返すと、ノンフィクションというよりもフィクションではないかとむしろ感じられてしまうのです。


それは、妊娠・出産には表裏一体である「死」を、「緻密な光景描写」ができるほどの意識と力量を持った人が書いたものではなかったからではないかと思います。



そして「自然なお産をしたい」という主観的な部分が織り込まれたフィクションにされてしまった、といえるのかもしれません。


<「死」が身近だった世代>


吉村昭氏自身がそうだったように、この世代の方々は乳児死亡率が高い中で無事に青年になっても、結核にかかれば若くして「死」と向き合う時代でした。
この世代の作家には、三浦綾子氏もそうですが、結核にかかり闘病生活をした体験がその後の作品に大きな影響を与えている方がたくさんいます。


結核から回復しても、仕事も結婚も出産もあきらめなければならない。
あるいは結核にかからなければ、徴兵されて戦場へ赴かなければならない。
出産で命を落とすことも、出産でお母さんが大きな障害を負ってしまうことも珍しくない時代でした。


誰もがどう生きても常に死を身近に感じていた時代を生きた方々にとっては、ノンフィクションとフィクションには境がないものだったのかもしれません。


吉村氏の<晩年>にはこう書かれています。

同年(2006年)7月30日夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の7月31日午前2時38分に逝去、79歳没。

もう一度作品を読み返してみたいと思う作家のひとりです。






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