境界線のあれこれ 25 <代替療法から近代医療へ>

1990年代に東南アジアで暮らした時に、ヒーラーと呼ばれる民間療法師が人々の健康相談から治療までおこなって生業にしている様子をよく見ました。


地元の友人が体調の悪いときに、ヒーラーに見てもらうというので付いていくこともありました。
普通の、貧しいという意味での普通の家から出てきた近所のおじさん風の人になにやら相談していました。
時には薬草だったり、時にはマッサージのようなものでした。


頭痛のときに、アセトアミノフェンのような安価な市販薬さえ購入できない貧困層の人が多い地域でしたから、ヒーラーへの謝礼もごくわずかだったようです。


さて、朝日新聞南アフリカの同じような状況を伝えた、「伝統療法師 政府も活用 暮らしの知恵」という記事がありました。

南アフリカ医療水準の高い国だが、普通の人々はもっぱら、農薬や先祖の霊力を用いるという伝統療法を頼りにしている


北東部の鉱山労働者の村ブラクティシア。イニャンガと呼ばれる薬草師のアニカ・ムコンドさん(57)は、患者からあれこれ病状を聞き取りはしない。


10月中旬、訪れた患者タベロ・ラマイラさん(22)を自宅の診察小屋の床に座らせ、その様子をまずは観察。その次に霊力が宿るとされる貝殻や小石、動物の骨をござの上にまき、その配置を見て病状を占う。考えが決まると、植物の粉末をいくつか調合し、渡して言った。「あなたは帯状疱疹(ほうしん)だね。私の飲み薬で1、2週間で治るよ」


この道16年のムコンドさんを頼り、患者は毎日10人は来る。評判を聞き、遠くケープタウンから来る人もいる。


人気の秘密は、プラスティック容器に入って整然と並ぶ薬草の数々や、カルテ作りなど、洗練されたスタイルにある。「ウィッツ大学で受けた講習のおかげだよ」とムコンドさんは言う。


南ア隋一の教育水準を誇るヨハネスブルグのウィッツ大学は昨年、現代医学やエイズ予防、経営、法律などの知識を伝統療法師に教える4週間の講習を不定期で始めた。ムコンドさんは1期生だ。


講習を担当するマズル・グンディドザ教授(薬理学)は「伝統療法は医師からバカにされてきたが、医薬品の約7割は植物原料。伝統療法と医学は補い合える。教育水準の低い伝統療法師たちに講習を提供し、両者の距離を縮めたい」とねらいを説明する。


南アの天道療法には、祈祷(きとう)や占いが専門のサンゴマと、治療を受け持つイニャンガがある。使う材料は、血行をよくするミントや、せきに効くヨモギ、鎮痛効果のあるヤナギなど千種類以上あるとされ、国民の8割が利用している。その理由は、医療体制の貧弱さにある。質の高い私立病院は治療費が高く、多くの貧困層が安い公立病院に殺到、どこも常に混雑状態だ。だから20万人はいるとされ、親身に相談に乗ってくれる伝統療法師が選ばれるのだ。


予算不足で、公的医療が改善しないため、政府も伝統療法の見直しを進めている。目玉は、2007年に成立した伝統療法師法。伝統療法師の資格制度を準備中だ。


保健省の担当者は「南アで深刻なエイズの予防には、伝統療法師の協力が効果的。だから一定水準の確保が不可欠になる。それが彼らの、無形文化財とも言える伝統の保護にもつながる」と思う。


ケープタウンでは、政府機関の南ア医療研究協議会が、伝統療法の効果について研究を進め、ウィッツ大学と同様の講習も開いている。


10月中旬の1日講習に参加したサンゴマのシルビア・ムナケザさん(49)は「国が伝統療法を認めつつあるのはうれしい。ニセ療法師も増えている。政府と協力して、先祖伝来の知識と人々の健康を守りたい」と話した。

(2010年10月20日

朝日新聞はこの記事で何を伝えたいのだろうと、しばし考え込んでしまいました。
リンク先のアドレスには[mukeiisan]が入っているので、「無形遺産としての伝統療法師を守る」ことを伝えたかったのかもしれません。


でもこれが自分の国の状況なら、記者はどのような記事にしたのでしょうか?


<日本の1940年代から60年代は同じような状況だった>


冒頭の「南アフリカは医療水準の高い国だが、普通の人々はもっぱら、薬草や先祖の霊力を用いる」の理由が、「医療体制の貧弱さにある」と書かれています。


もし日本で「質の高い私立病院は治療費が高く、多くの貧困層が安い公立病院に殺到、どこでも混雑状態」であったなら、新聞は何を問題ととらえて解決策を書くのでしょうか?
「親身に相談に乗ってくれる伝統療法師がよい」と書くのでしょうか?


おそらく記者は半世紀前の日本が、この南アフリカと同じ状況だったことさえ知らなかったのかもしれません。
いえ、私も自分が生まれた1960年頃に、まだ無資格者が熊の手で妊婦のお産をなでて祈祷し分娩介助をしていたなんて、最近まで考えたこともなかったくらいですから。


日本も呪術医学・非近代医学から近代医療へ大きく変化する時期がありました。
それが1940年代から60年代であり、医療と医療類似行為を「あん摩マッサージ師・はり師・きゅう師に関する法」(1948年)で線引きをしたこともその一つだったのではないかと思います。


こちらの記事に書いたように、野口整体創始者野口晴哉氏が「『治療』を捨てる決意をした」時代です。


やはり半世紀ぐらいの時代の変化というものを知らないがゆえに、公立病院へ殺到する人たちの状況よりは「親切な伝統療法師を無形遺産に」ということが重要になってしまう、現実感のない記事になってしまうのではないかと思います。


そして、ここ10年ほどで産科診療所を閉鎖された70代から80代の先生方は、ちょうどこの近代医療へ大きく変わった時代を担ってこられたのだと改めて思います。


熊の手で祈祷しながら出産をしていた人たちもいた時代だったのだと思うと、「死亡率の改善という努力の代償はあまりにも残酷すぎた」という気持ちには、私たちの世代には想像もつかない状況があったのだろうと思います。


そして伝統療法や民間療法とは比較にならないほど確実に多くの命を助けてきたのに、「親切さ」がわずかばかり足りないだけで社会の不評をあびることになるなんて、本当に残酷な社会だと思います。
いえ、実際には親切な先生方もたくさんいらっしゃったのだと思います。


おそらく近代医療への急激な変化の中で、社会の人々の感情の整理が追いついていかなかったことが一因ではないかと思えるのです。





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