産科診療所から 7 <産婦人科診療の一世紀前と半世紀前>

産科診療所の歴史について検索していたら、岡山大学大学院医歯薬学総合研究科産科・婦人科教室の「教室の歴史」という年表に興味深い話がありました。


診療所ではないのですが、日本で近代医学が始ったばかりの大学病院の歴史が書かれています。

明治23年(1890) 岡山で初めて子宮全剔出術を行う。この年前後して京都、大阪でも行われる。

産婦人科病棟では珍しくない子宮全摘出術も、たかだか1世紀の歴史なのですね。
その下に、貧富貴賎の差別もなく、深夜休日を問わず患者を受け入れていた様子が書かれています。


その前年には「宵越の開腹術」という驚くような話があります。

手術に手間どり夕方になり夜になった。残りは明朝ということで、患婦は手術台の上に寝かせられた儘、ガーゼやら何やらを腹の上に積み重ね、その夜は慰労会開催。翌朝続行したが、成績は頗(すこぶ)る良かった。

当時の人たちには、一世紀後の医療は想像もつかないことだったでしょう。


<産科診療所の歴史を垣間見ることができる資料>


横道にそれましたが、日本産婦人科医会東京支部の60周年を記念した「各支部10年の歩み」という資料が公開されていました。(40ページ以上あります)
何年のものか明記されていないのですが、2009(平成21)年頃のもののようです。



私自身、診療所に勤務して初めて日本産婦人科医会という組織があることを知りましたが、開業医の先生方を中心にした団体のようです。


「10年の歩み」とありますが、1960年代からの産科医療の変遷やそれに対する産科医の先生方の思いなどが書かれているものもあって参考になります。
産科医の先生方の率直な思いというのは、側で働く私たちにとってもなかなか聞く機会のないものです。
職場では、面と向ってそのような話はしませんからね。


その中で、木村好秀氏の文(p.16)に半世紀ほどの産科医療の変遷と問題点がわかりやすく書かれていましたので紹介したいと思います。

 元来、分娩を「お産」という言葉で捉えていた時代には、これは子孫を継承していく人間の自然な営みであり、時には大変残念ながら不幸なことに自然淘汰的なことも起こりうるという事が、医師と妊・産婦との間に暗黙のうちに了承されていたのではないかと思う。医療の進歩は著しいが、一方で女性の高学歴、社会進出、人生選択肢の多様化などから晩婚化が進んで高齢出産が増え、自ら妊娠合併症を併発して妊娠・出産に望む女性が増加しており、特にここ10年間がその傾向が著しくなった。筆者が産婦人科医になった昭和30年代には産科診療機器は皆無に等しく、トラウベ氏桿状聴診器、巻尺、マルチン氏骨盤計ぐらいで、それに自らの手指が最も重要な産科診療上の用具であった。人類の長い歴史のなかで、20世紀の半ばまでは子宮内は暗黒な完全に閉ざされた世界であり、方法論がなく自然に委ねられ自然淘汰の多い診療科であったといえよう。そこで待機的な自然分娩にこだわり、骨盤位をはじめ今日では異常分娩として直ちに帝王切開となるような症例も経膣分娩を試み、帝切率も数%に終始したのであった。
 診療所を開設して分娩を取り合わない施設は殆どなく、地域に密着した多くの出産施設があり、医師と患者との人間関係も良好に保たれ、誠意を尽くしていれば余程のことがない限り、産科訴訟に至るようなことはなかった。

 産科医療が周産期医療とよばれる様になって久しいが、その間、診療所も安全の確保と安楽を重点をおいて多くの診療機器を整備し、安全神話に対応して、パーフェクトベビーの誕生に日夜臨むことになり、多くの産科医は精根つきている。しかしこんにちはこの窮状に援軍が求められない現状がある。その背景には産婦人科学におけるsubspecialityの分化と確立が行われ、女性医師の増加、医師の偏在、3K的医療の敬遠、訴訟の増加、医局制度の崩壊などが考えられる。
 わが国は、急速な少子高齢社会が到来してきているが、出産を希望する女性が地域で安心して出産できる場所が激減し、少子化に拍車がかかっているのが現状である。そして、先進国である筈の日本では考えられないようなお産難民も出現している。

小児科医にとって「胎児はブラックボックス」という時代が1970年代まであったように、産科医にとっても子宮がブラックボックスであった時代というのは、医療史のなかでみればつい最近までのことなのだとつくづく思います。



<半世紀前の産科診療所>


私が助産師になった1980年代終り頃には、分娩監視装置(CTG)や経腹エコーは当然ある時代でした。経膣エコーはその少し後、1990年代に入ってからでした。


半世紀前の産科診療がどのようであったかは、上記資料24ページの川島一成氏の「開業医の半世紀」に書かれていました。

 当時の新生児室には保育器もありませんでしたから、1000g位の未熟児が、コットにころんと寝かされていたり。どんなに小さくとも、生命力にあふれた赤ちゃんは無事に育っていったものです。

 当時の妊婦健診は、トラウベで胎児心音を聞き、レオポルドと腹囲・子宮底の計測で、胎児と妊婦さんの状態を的確に言い当てていたものです。便利な道具がないからこそ、診察から最大限の情報を得ようと努力する。研ぎ澄まされた感覚の職人技、ということなのでしょう。

たしかに、子宮内がブラックボックスだった時代の診察技術や経験というのはすごいものがあると、勤務先の先代の先生をみても尊敬しています。


ただ、2000年ごろまでは妊娠初期に経膣エコーで胎のうを確認しなかったり、妊娠中には1度も経腹エコーを使わない先生方がいらっしゃっいましたから、赤ちゃんが無事に生まれた直後、「あ!もう一人いる(双子だった)」ということもまだありました。


まぁいずれにしても、この半世紀に今のような周産期医療の時代を予想できた人はどれくらいいたことでしょうか。


そして次はどのような時代になるのでしょうか。





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