「産科診療所から」まとめ

思えば遠くへきたものだ。
ブログを書いて、あれこれと回想しているとそんな思いになります。


進学校だった高校時代は「女は大学に行かなくてもよい」と言われ、やりたいことかどうかもわからないまま看護学校に進学しました。
でも入学してからは「自分に合っているかも」と、その面白さに自分の天職だと思いました。


新人で就職した病院は、その当時国内でも大きな規模で先進的な医療を取り入れている病院でした。周囲からも「ふぃっしゅさんはきっと看護部長」と冗談で言われるくらい、ゆくゆくはそこで管理職になるのだと思っていた私が、まさか3年で退職して海外に行く決心をしたことに周囲も驚いていました。


国連の機関で難民への医療支援に従事したとき、このまま私は海外医療協力の「プロ」になって、世界中を飛び歩くことになるかもしれないと想像していました。
そのためには母子保健のことがわからなければと、助産師学校に進学しました。


助産師として大学病院で新人教育を受けることよりも、市中病院ですぐに実践力として働くことを選択したのも、いつでも海外にまた飛び出すことができるようにというためでした。


ホント、若い頃は前途洋々の夢が広がり、根拠の無い自信に満ちていますからね。



ところが、私の赤面の人生について書いたように、再び海外医療協力に参加することはなく、むしろ私がなぜ経済的に豊かな国に生きているのかという悩みのほうが大きくなり、東南アジアを行き来しました。
そのための渡航資金も長期休暇も得られたのは、パートやアルバイトの就職口に困らない看護職だったからで、本当によかったと思いました。


90年代半ばになると、総合病院の雰囲気が変わり始めました。
看護学をめぐる時代の移り変わりにも書いたように、たくさんのセミナーが開かれ、看護診断という言葉も広がり始めました。新しい考えに遅れまいとしたその先にあったのは、入院病床削減と入院期間短縮で、総合病院での看護を続けることが苦痛になったことも、産科診療所へと移った理由のひとつです。



助産師になってからも、産科診療所についてはその存在さえ目に入っていなかったのに、まさかの転職です。



超緊急時の対応には限界がありますが、妊娠・出産・赤ちゃんの世話をスタートさせるには、入院する側も受け入れる側も適正な人数で対応できる理想的な場所ではないかと。
そして、いろいろな施設や人生を経験した看護スタッフが集まって、ほどほどの熱意で力を合わせて頑張っていることもいいなと思います。



地域でこうした小規模の分娩施設が残るためには、どうしたら良いのだろうと考えています。
思えば遠くに来たものです。


1. ここ20年の遅れは取り戻せるか
2. 一人医長から複数の産科医の時代へ
3. 母体・新生児搬送の今昔
4. お産が好き
5. 医療施設の歴史
6. 有床診療所の歴史
7. 産婦人科診療の一世紀前と半世紀前
8. 情報が伝わりにくく、変革しにくい
9. 安全にかかるコスト
10. 経営者と一心同体
11. 有床診療所の看護管理が確立されていない
12. 見守るケアを行うのに適正な人数
13. 診療所で働く人たち...医療事務
14. 診療所で働く人たち...食事
15. 診療所で働く人たち...清掃や洗濯など
16. 分娩施設はどうなるのだろう
17. 産科麻酔の実態の把握のための一歩
18. 「役割拡大」よりも「縮小」を、そして「業務の手順化・標準化」を
19. IGR地域医療ライン

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「死亡率の改善という努力の代償はあまりにも残酷すぎた」
境界線のあれこれ 23 <周産期医療ネットワークシステム>
境界線のあれこれ 24 <一次施設の診療所と助産所>
事実とは何か 39 <産科診療所での無痛分娩>