前回の記事で書いたように、産婆から助産師の資格を得るために必要な教育は、この1世紀ほどで小学校卒程度から大学院卒の助産師が存在するほど大きく変遷してきたことになります。
実際に、女性にとっての教育や学歴はそれぞれどのような時代だったのでしょうか?
<教育制度の始まりと戦後まで>
1962(昭和37)年に当時の文部省が出した「日本の成長と教育」という文書が公開されていました。
「我が国の教育普及の史的考察」の「(1)発展の概要」に、日本で初等教育が始った頃から1908(明治41)年に義務教育制が小学校6年までに延長したあたりの様子が書かれています。
その図4「教育階別在学者数の比率(10年ごと)」を見ると、1895(明治25)年はまだ96.5%の人が小学校しか出ていなかったものが、戦後の1950(昭和25)年には、小学校と準・中等教育(現在の高校程度)まで終了する人が4割近くも増えています。
わずか半世紀ほどの変化です。
その頃、小学校で成績が優秀であれば、なんとかして当時女性としては高給とりであった産婆の資格を取り階層を越える手段にしようと思った女性がたくさんいたことでしょう。
<戦後の看護資格の改正と女性の教育>
戦前から戦後の女性の教育変化をわかりやすくまとめたものを見つけました。
「大学新聞」というサイトの「学歴入門 真実と対応策」の「第8回 学歴社会における女性の教育」(橘木俊詔氏)です。
戦前の女性の教育について以下のように書いています。
高等教育ということに限定すれば、戦前の日本において女性は排除されていたといっても過言ではない。
ほんの2〜3%の女性が旧制の女子高等専門学校に進学したに過ぎず、高等女学校が女性にとっては高等教育だったといった方がよい。「女性に教育は必要ない」というのが通念だったのであり、背後には「良妻賢母」を理想の女性像とする思想が支配していたからである。
戦後については「進学先が大学から短大へ」の中で以下のように書いています。
戦後の女性の大学・短大進学率に注目してみよう。1960(昭和35)年では、大学にはわずかに2.4%、短大でも2.6%と女性の高等教育はごく一部に限られていた。日本の過程がまだ貧困に苦しんでいた時代なのでやむを得なかった。ちなみに男性の進学率も15.0%にすぎなかった。
ちょうど私が生まれた頃の状況です。
本当にごく限られた女性だけが大学教育を受けられる時代でした。
さらにさかのぼること10年、1951(昭和26)に「保健婦助産婦看護婦法改正案」で准看護師制度ができたことはこちらの記事に書きました。
その当時、どれくらいの割合の女性が高等学校へ進学できたのでしょうか?
「准看護婦問題の現在」(村上友一氏、現代文明学研究:第5号、2002年)の中には以下のように書かれています。
准看護婦制度は1951年に創設された。当時、女子の高校進学率は37%であり、高卒を前提とする看護婦養成制度では看護職員の供給が追いつかず、高卒を前提としない中卒で取得できる看護婦資格が必要とされたからである。
明治から昭和の中ごろまでは、女性が小学校のあとに職業教育であれ、高等教育であれ、学び続けたいという願いを実現することは容易ではなかったことなのでしょう。
戦後に中学までが義務教育になっても、高校進学や職業教育を受けることもまだ女性にとっては大変な時代だったのだろうと思います。
看護職の資格の問題には、こうした個人の努力ではどうにもならない社会の背景があったこと、それが現在にも続いていることを忘れてはいけないと思います。
<おまけ>
80になる母は、いまだに姑(生きていれば100歳以上でしょうか)への恨みを語ります。
「姑は自分の子どもたちに皆、大学レベルの教育を受けさせたことを自慢して、私(母)が高卒であることでいつもバカにしていた」と。
それが原因で母は姑と疎遠になり、私も父方の「おばあちゃん」をほとんど知らずに育ったくらいです。
こうして女性の教育の変遷を考えてみると、母の高卒でさえも終戦直後の当時なら学歴としては高いほうだったのでしょう。
「女性の中の学歴社会」も根深いものがあるのかもしれません。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。