記憶についてのあれこれ 2 <「ひとつとはなにか」>

月に一回、グループホームに暮らす父に会いに行きます。


父が住みなれた地域のホームなので特急で2時間ほど離れていますが、ひと月ごとに車窓の風景が変わるのを楽しみながらの小旅行です。
先月は残雪があったのに、先日は桜と菜の花、桃やこぶしが続く春の風景に変わっていました。


先月はグループホームのスタッフに「私の妹です」と紹介していましたが、先日は「懐かしい顔だけれど誰だろう?」という感じでした。
話をしているうちに、「妹」が蘇ってきたようです。


グループホームは目の前が広大な市民公園という、散歩が好きな父にとってすばらしい場所にあります。
噴水を見たり、二人でぼっとしながらしばらく公園で過ごしたあと、近くのコンビニでソフトクリームを食べるのがお決まりのコースです。


父が認知症になったあと、母から「お父さん、ソフトクリームが大好きなのよ。買い物に出かけると『アレを食べよう』って名前が出てこなくてこんなしぐさをするの」と、手でウネウネとソフトクリームを表現することを聞きました。


大正生まれの父ですから、いつどこでソフトクリームに魅せられたのでしょう。
真実はもう闇の中ですが・・・。


父との会話で、もっとも生き生きとするのが座禅の話です。


若い頃から座禅を始めて、定年後には禅宗では有名なお寺で修行をして、その寺の僧籍まで得ました。
在職中にはそこそこの地位と名誉がありましたし、さらに名門の寺の僧籍を得た頃には、もともと謙虚な父でも多少誇っているところがありました。


ところが、その栄華とも言える時期の記憶はすっかりとなくなり、一番最初に座禅の師に出会った若い頃の話だけが残っているようです。


公案で師にたくさんしぼられた。答えが出たと師に会いに行っても、違うと言われる」と、楽しそうに思い出すようです。


たとえばどんな公案があったのかと尋ねたときに父が答えたのが、今日のタイトルでした。
「『ひとつとは何か』を答えよ、というのがあった」と。
その顔は、「難しくて答えられるもんじゃあないだろう?」と愉快そうです。


公案を考えるのには集中力が大事なのかと尋ねたら、「禅は集中力とも違う」とこれまた禅問答になっていきます。


コンビニの片隅でソフトクリームを食べながら禅問答している父娘ってどうよという感じですが、同じような会話の繰り返しの中から父の知らない面が広がり、そしてそこからまた私の考え方やものの見方が少し広がる、そんな充実の時間です。


ところで、父はもともと物欲の少ない人でしたが、人に何かをあげるのが好きでした。
認知症になってからも、実家に帰ると「何か欲しいものはないか。これをもって帰っていいよ」と身の回りのものを持たせようとすることろがありました。


グループホームの居室には、何冊かの本とごくわずかの物しかありません。
それでも「何か持っていっていいよ」といつも言います。


私が手に取ったのは、もう茶色くなった禅に関する本でした。
ふと父の顔が変わりました。
「それはダメだ」と。
「読むだけだから大丈夫」と返事をすると、安心したようでした。


あの本を父の形見分けとしてもらおうと決めています。
あの本だけでいいので。




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