「産科崩壊」を機に医療系のブログを読むようになりました。
そのひとつが「日々是よろずER診療」でした。
福島県立大野病院の産科医逮捕、そして大淀病院や墨東病院の「たらいまわし」報道などからこのブログに出会ったのでした。
救急専門医であった医師が遭遇した事例から、「地雷」という言葉を使ってその教訓を伝えているものです。
一見、医学の専門知識と技術を深めることが目的の内容ですから、「地雷」という言葉も「ここが気をつけるポイント」というマニュアルのように受け止められやすいかもしれません。
患者や家族を「地雷」のように受け止めるのは失礼ではないかというようなコメントもあったと記憶しています。
読むうちに、こちらやこちらの記事にあるような「医療の不確実性」を伝えようとしているのではないかと理解しました。
そしてどの記事だったか検索をかけても出てこないのですが、「医療の一回性」についても書かれていたと記憶しています。
医療従事者でありながらそれまで「医療の不確実性」「医療の一回性」という言葉の存在を知らずにいたのですが、何か目の前が開けるような言葉でした。
<生命の一回性>
生命の一回性については、20代初めに出会った犬養道子氏の著書に書かれていたことが私の心に残り続けています。
どの本に書かれていたかもわからず記憶に頼った内容ですが、こんな感じだったと思います。
日本語でユニークというと「風変わりな」とか「おもしろい」という意味で使われることがあるが、もともとは「唯一の」「二度とない」存在という意味である。
あなたという存在は、たとえ何百万年の間人類が生まれ続けても、二度と存在しない。
どの命も、二度と同じ命というものはない。
そして「あなた自身がユニークで大切な存在であると同時に、今、同じ時代に生きているすべての人がユニークな存在である」という話だったと思います。
ちょうどその言葉に出会った頃、私の勤務先には何年も植物状態で入院されている方がいました。
反応のほとんどないその体を清潔にし、床ずれができないように体の向きを変える。
ご家族や友人の面会もほとんどありません。
その繰り返しの毎日の中で、「生きている意味がないのでは」という気持ちが抑えられませんでした。
犬養さんの言葉で「この方という存在は未来永劫、二度と同じ存在はないのだ」という当たり前のことに気づかされ、毎日私たちが関わっていることでこの方の生きている意味があるのではないかと、漠然と気持ちが変わったのでした。
<医療の一回性・・・再現性がない>
さて冒頭のブログに出会った頃、この生命の一回性とともに、臨床実践の中で「あの人にはこの方法が良かったけれど、別の人には適していなかった」という経験がありながらも、うまく表現できないもどかしさのなかにいました。
「そうだ、医療は一回性なのだ」
同じようなお産の経過でも、ひとりひとり違います。
育児のスタートもひとりひとり違います。
当然です。
「こういう経過は以前経験したことがある」
そう思って対応すると、不測の事態がおきます。
また「こんなことも起きるのか」と、自分の知識や経験はごく限られたものにすぎないことに気づかされます。
あるいは「こういう場合にはこういう説明がよいかな」と思っていると、その方の求めている答えは違うものであったりします。
ましてや「これがいいお産」とか「母乳で育てればよい子になる」なんて「正解」を描き出せるはずがありません。
「医療の一回性」
この言葉に出会うことで、二度と同じ状況を再現することはできない、それが医療の本質のひとつなのだとようやく理解したのでした。
<再現性がない・・・個人的体験談>
医療の一回性、不確実性について考えていた頃に、kikulogのニセ科学の議論に出会ったのでした。
「個人的体験談は効果を証明するものではない」
まさに、個人的な体験談というのは再現性がないものです。
何かについて「それは非科学的」とか「ニセ科学」というレッテルをはることがニセ科学の議論ではなく、この社会の事象というのはおおよそ「個人的体験談」、つまり再現性のないことで成り立っていることを知ることが大事だということを学んだのでした。
もし看護の「広い視野」とは何かと問われたら、人間社会で起きていることの「全体像を知る」ことと、「物ごとの一回性」と「不確実性」を理解できることではないかと思うのです。
そしてそれこそ、まさに科学的な視点であり視野だと納得している今日このごろです。