行間を読む 12  <看護実践の一回性>

一見「看護の本質」が科学的手法で理論化されているようで、かえって遠ざけてしまっているのではないかということを前回の記事で書きました。


たとえば「フリースタイル分娩」「アクティブバース」が、ある産婦さんの快適性によかったことは事実でしょう。
ただその方法が万能ではないだけでなく危険な場合もあることは、分娩に携わっていれば想像に難くありません。


先日ようやく、水中分娩の危険性に対してアメリカの産婦人科学会から勧告が出されたようです。


誰かが「よかった」と始めて広がってしまったものに、危険性を感じてもなかなか止める力にはなりません。
水中分娩も収束させるのに30年以上もかかりました。


まさに「個人的体験談は効果を証明するものではない」ということです。


<個人的体験談は効果を証明するものではない>


それについての答えが薄井担子(ひろこ)氏の「科学的看護論」に書かれています。

理論と言うものは、対象そのものの個別性を捨象してあとに残った一般性を問うものであるから、看護理論は看護実践そのものを対象として一般化を試み体系化されなければならない。
そこで私たちは、どのような小さな看護実践にも、それが看護である限り、そのなかに看護の論理が含まれているはずであるということの確認から出発したい。

たとえば、すぐれた実践記録を読んで感動したならば、その実践の個別的なもの・具体的なものを一応たなあげして、一体どのようなことがあったと一般的にいえるかを追求することによって看護の論理をつかみとることができるであろうし、その論理が正しいかどうかは自分が看護するときの指針として使ってみることで確かめることができるであろう。(p.4)

「昔のお産はよかった」「自由な姿勢で分娩介助しよい結果があった」という話を読み、自分の看護実践に取り入れられる何かアイデアが得られるかもしれません。
ところが、実践してみるとうまくいかないどころか、かえって産婦さんや赤ちゃんに危険な状況も出てくるわけです。


その点について、薄井氏は以下のように書いています。

また実践した当の看護師についていえば、良きにつけ悪しきにつけ自分の実践の意味をはっきりつかみとろうとしなければ、すぐれた実践は一回限りのもので終わるかもしれないし、失敗例はくりかえされるかもしれない。そればかりか、後輩に伝えることによって試行錯誤の繰り返しを断ち切ることができるかもしれないという可能性を捨ててしまうことにもなる。(p.5)

水中分娩やフリースタイル分娩、あるいはカンガルーケアーや完全母乳を勧めたことで、きっとヒヤリとした助産師の経験は多いのではないかと思いますが、その実践をきちんと見極めないといちど「よい」と思い込んだ方法を見直す機会を失うことになります。


助産師の意識だけでなく、一度社会に広まった認識を変えることは途方もない時間と労力が必要になります。
薄井氏はその点もきちんと押さえていました。

また論理を導き出しておかなければ、看護職以外の人に看護の専門性についての理解を促がすことは不可能になる。なぜならば専門が異なる場合には、論理を通してでなければそのことを理解するのは困難だからである。

「畳の上で好きな格好で分娩介助してくれる助産師」がよい助産師であると信じた産婦さんの認識を変えるには、分娩の専門知識から感染予防までさまざまな論理を理解したうえでなければ難しいことでしょう。



<「看護実践は常に一回性」>


昨日紹介した少女の自殺の話から、薄井氏は以下のように書いています。

”あの子のようなケース”とはどういうケースなのか、なぜ大事をとらねばならないのか、どうすることが大事をとることなのか、を理論的に解いておかなければ、再び同じような失敗を繰り返さないという保証はないのである。
なぜならば、看護実践は常に一回性のものであるから、仮に論理的には同じであっても、場面としては異なった現象をとるのが常だからである

看護実践の一回性、つまり再現性のないことの限界を知ることが、逆説的に「科学的」な看護実践になるということなのかもしれません。






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