行間を読む 11 <「看護論は科学でなければならない」>

少し偉そうにですが、看護にとって広い視野とは何かをこちらこちらに書きました。


実は、薄井担子(ひろこ)氏の「科学的看護論」医学書院)には、医療の一回性に通じる看護実践の一回性について書かれていました。


私が購入したのは2011年版ですが、1974年に初版が出版されています。
40年も前、しかも日本の病院看護の曙の時代とも言える1950年代から60年代の看護の大転換の時期からわずか10年ほどの時期に、これだけ本質に迫ったことが書かれていたことに驚きます。


さて、看護実践の一回性については「看護実践にひそむ法則性」(p.3〜)の中に出てきます。


その章のサブタイトルには「看護論は科学でなければならない」とあり、今なお日本の看護界の問題の根幹と言える部分の指摘が書かれています。

看護界の低迷の原因は、一つには労働条件の低劣さにあることは確かであるが、理論の有用性を本当に理解していなかった指導者層の責任もあるのである。看護は科学でわりきれるものではない、心が大切だ、というような感覚的な把握の仕方では、実践上ゆきづまったとき、”こうしてみよう”と考えてとり組むことを可能にするような指針をとりだすことはできない。

そしてある療養所で退院間近の少女が行方不明になり自殺した話が書かれています。
夜7時に病室にいなかった少女に対して、「花火大会を観にいったのだろう」(療養所は規則がゆるく外出も可能だった)と心配していないスタッフに対し婦長が少女を探すように指示し、結局は自殺体で発見されたという話です。

科学とは事象の中にひそむ法則性をすくいあげて一般化した認識であるが、人間社会の事象とは物質だけでは決してない。婦長がなぜピンときたかというと、婦長は少女を探すように指示したとき「あの子のようなケースには、大事の上にも大事をとる必要があるって、いつもいっているでしょ」といっており、人間社会のあり方やそのなかでつくりつくられた人間の精神のあり方に法則性があることを経験的につかんでいたからでる。

こうした臨床実践の中の法則性を理論化することの遅れを、薄井氏は40年も前から指摘していたのでした。


<「看護実践にひそむ法則性」>


「看護実践にひそむ法則性」(p.3)には、「なぜ看護の実践を導く理論は低迷を続けいているのか」について以下のように書かれています。

私は最大の原因として、看護界における理論とか科学とかに対する理解の低さを指摘したいと思う。つまり、科学としての理論を発展させるには、経験のなかにひそむ理論をたぐりとって法則化することを出発点としなければならない。このとり組みも教育もできていないのである。

そして学生時代から30年もたって読み返したときに、以下の箇所を見つけて私は頭を殴られるような衝撃を受けました。

経験というものは、あくまでもその人自身に役立つという意味でつみ重ねられていくものである。それはあくまでも個人的なものであって、そのままでは社会的なものにならないという特徴をもっている

まさに、個人的体験談の限界について書かれています。


30年、遠回りをしてようやく私はこの本質にたどり着いたのでした。



たしかに、薄井氏がこれを書いた40年前に比べれば、看護実践に役立つ本は格段に増えました。


1970年代以降「看護研究」がさかんに導入され、さらに1990年代以降は「根拠に基づく医療」の時代となり、一見、科学的な手法が取り入れられてきています。


でもなぜ本質的でないケアの方がより科学的な手法で効果が得られたように伝わってしまうのでしょうか?


たとえば、「産婦さんにとってより快適であり母児にとって安全な姿勢」という看護の本質ではなく、「畳の上で産む」とかフリースタイル分娩といったキャッチコピー的なものが助産師の間で広がるのは何故でしょうか。


薄井氏の本には、きちんと書かれていました。
次回に続きます。





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