記憶についてのあれこれ 10 <1980年代、ピアスの広がりにはこんな気持ちがあるかもしれない>

前回の記事で紹介した論文では1980年代後半に日本にピアスが広がった理由まではかかれていませんが、あの時代の雰囲気を少し思い返しました。


当時の日本の女性にとっては、かごの鳥からはばたき始めた時代だったように思えるのです。


<海外へ自由にいけるようになった>


日本の場合、外国に行くには海を越える必要があるのですが、それが気軽にできるようになったのが1980年代でした。


海外旅行に書かれているように、それまで「一人年間1回限り」と規定されていた海外旅行が1966年から自由化されました。


1970年代には海外渡航者も急増していますが、本格的に庶民が出かけるようになったのは1980年代半ばで、1985年のプラザ合意による円高ともうひとつ、アメリカ合衆国へのビザ撤廃があるのではないかと思います。
当時、アメリカにビザなしで入国できるようになったことは「日本が先進国として認められた」というニュアンスだったと記憶しています。



少し貯金をすれば、海外旅行に行くことができる。
世界各地へ出かける人が増え、日本では当たり前のことが当たり前ではないことに気づいた人が増えた時代だったのではないかと思います。


そして世界中の女性の耳元に輝くピアスを見て、体に穴をあけることがタブーでもなく、「親からもらった体」の乳児の耳にむしろ親がピアスをすることが普通に行われている社会が海の向こうにあることに日本の当時の女性は気づいたともいえるのかもしれません。



<きちっとした服装への反発>


今でこそ、街ゆく人の服は何でもありという感じですが、1970年代から80年代はまだ女性の服はデザインもかっちりしたものがほとんどでした。



中学から看護学校まで制服があり、卒業しても白衣という制服がある生活の中で、私自身の中でなにかがはじけたかのように、DCブランドの服を買うようになりました。


渋谷PARCOメルローズやCOMME CA DU MODE、MOGAなどの服にはまりました。
それまでの市販の服にはない自由なデザインを選ぶことで、何か自由を得たような気がしていました。
まぁ、DCブランドという制服を着ることで安心したともいえますが。


それにしてもアフリカの飢饉やインドシナ難民に心を痛める反面、DCブランドの服を買っていた自分のアンバランスな感情と行動に、また赤面するのですが。


ところで白衣という制服を現在もまだ着続けているのですが、今はそれほど苦痛は感じません。


1990年代終わり頃からでしょうか。看護職の白衣もデザインを自分で選べる病院が増えたことと、あの象徴的なナースキャップが廃止になったことが大きいかと思います。


1980年代に働いた東南アジアの某国では、色が白と決まっているだけで、看護師は皆好きなデザインの白衣を着ていました。キャップもありませんでした。
おしゃれで素敵だなと思ったことが、ようやく十数年遅れで日本にも取り入れられたのでした。


なにか規制がないと人は突飛なことをするのではないかという不安が強い社会から、むしろ規制や規則が強ければそこから飛び出したくなる反動のほうが強くなることを感じ始めた人が増えたのが1980年代なのかもしれません。


とくに「女性はこうあらねばならない」という社会通念から決別したい、ピアスの広がりにはそんな感情があったのかもしれないと勝手に想像しています。





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