産後のトラブルを考える 19 <ケアを必要とする側がケアも担う>

老老介護という言葉が使われ始めたのは、何年頃だったのでしょうか。
高齢者と高齢者だけでなく、高齢の親が障害をもった成人のこどもを介護したり、中高年が高齢の親を何十年も介護するなど、「老老」では表現しきれない多様な状況があります。


これを別の言葉に置き換えるとすれば、「ケアを必要とする側がケアも担う」状態と言えるのではないかと思います。


そして多くの場合、ケアを担う側は交代要員がなく、共倒れになるまで追い込まれて行きやすいのではないかと思います。


前回紹介した上野千鶴子氏の「ケアの社会学」(太田出版、2011年)の中で、以下のように書かれています。

ケアは社会問題だが、それもケアが社会問題になったのは最近のことである。ケアが社会問題になったことを、超高齢化やそれにともなう介護負担の増大に帰する論者もいるが、社会が何を問題と認識するかは、その社会によって異なる。どんなにたくさんの高齢者がいても、それらの人々をケアの対象と考えずに、それに対する責任を社会が負わなければ、ケアの負担は社会には発生しない。育児や介護が私的な領域に封じこめられているあいだは、誰もそれを「社会問題」とは認識しなかった。だが「私的」であるとは、それを「公的領域」から排除し、見えないようにするための仕掛けにほかならず、「私的領域」こそは公的につくられたものであることを明らかにしたのはジェンダー研究だった。「個人的なことは政治的なことである」という標語を掲げたフェミニズムから出発したジェンダー研究は、「私的な領域」の政治化を遂行したのである。こうして私的な行為とされていたケアは、「目に見える」問題となった。(p.16)

さとえさんあおばさんのお話を伺うと、「産後経過に問題のありケアを必要とする母親が、赤ちゃんのケアを担う側」であるのに、かつての老老介護と同じようにまだ「社会問題」ではなく私的な問題としかとらえられていない段階なのではないかと思います。


<産後の母親への「ケア」とは>


冒頭の本で「ケアの定義」として使われた文を再掲します。

依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係

「成人または子ども」を「産後の女性」に置き換えます。


「出産・育児のリアリティショック」としていくつか記事を書きました。

「まさか・・・考えてもいなかった」
「だっこがこんなに難しいなんて」
「授乳がこんなに難しいなんて」
「体を動かせない」
「自立した排泄から要介助」
「産後の傷の痛み」

退院の頃にはこうしたことからも解放される方もいることでしょう。退院後に身の回りの世話をしてくれる(ケアしてくれる)手があれば、しばらくこの状況が続いても乗り越えられる方もいらっしゃるでしょう。


「排泄のトラブルと子どもの成長、そして自責の念」で、あおばさんの「(自分の)排泄の失敗で、子どもを泣かせたままその処理をしている時のやるせなさは誰にも言えず、自分を責めてばかり」というコメントを紹介しました。


赤ちゃんのケアの担い手自身がケアを必要とする状況があれば、社会でその部分を手伝う。
たとえばあおばさんがご自身の対応をしている間、子どもを見てくれるヘルパーさんがいればここまで自責の念は持たなくてすむかもしれません。


失禁しやすいので我が子を抱っこすることもできない状況で、誰かが自分に変わってたくさん抱っこして子どもの気持ちが落ち着いている様子を見ることができれば、自分を責める気持ちも違ってくるかもしれません。


「母親」あるいは「養育者」の部分を社会が肩代わりしてくれれば、ご自身の通院や治療にも行きやすくなることでしょう。


中には産後の心身の問題が長期間続き継続的なケアを必要としている女性がいること、そしてそれに対してまだなんら方策がないということは、それが社会の問題として気づかれていないということに他ならないと思います。


<産後のケアの当事者は2人>


産後のケアの当事者(ニーズがある人)は、赤ちゃんとその養育者です。


通常は母親がそのケアの担い手ですが、中には事情があって父親だったり祖父母ということもあります。
いずれにしても、赤ちゃんが生まれてしばらくは「ケアを必要とする側がケアの担い手」になる状況で交代要員がいない場合も多いのですが、「私的なこと」として声に出すことさえ思いつかない人が多いのかもしれません。





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