ケアとは何か 2  <「ケア」の語源と意味ー「ケアの社会学」より>

親の介護を真正面から考えなければいけなくなったときに、上野千鶴子氏の「ケアの社会学 −当事者主権の福祉社会へ」太田出版、2011年)に出会いました。


「ケアとは何か」。
看護ケアの現場で働いてきた中で、ずっと心の中にあった根本的な問いに答えれくれる本はなかなかありませんでした。



入院中の患者さん、あるいは産科では妊産婦さんや新生児、そしてそのご家族への「ケア」は、当然ですが、常に第三者側としての「ケア」でした。
仕事では客観的に判断していたことも家族のことになると感情が渦巻き、客観的な判断はできないことがしばしばありました。


自分が仕事としてきたケアと、家族へのケアとは違うのだろうか。
そんな疑問で悶々とする中で、この本を見つけたのでした。


帯には「超高齢社会における共助の思想と実践とは何か?!」とあります。
そしてこの本には、最初から「ケアとは何か」その言葉の定義や語源から始まっていました。


上野千鶴子氏の本は以前から関心があって読んでいました。
この本も読む角度によっては批判も共感も大きく分かれるのかもしれませんし、介護や福祉に関しては私自身素人なのでこの本を読みこなせていませんが、ケアとは何か頭の整理をする機会になりました。




<「ケア」は何に対して使われてきたか>


上野千鶴子氏が「ケア」という言葉を使った経緯が書かれています。

 本書は高齢者介護を主たる研究主題とするが、その際、「ケア」という上位概念を採用する。

その理由は、これまで主として「育児」の意味に限定して使われてきたこの概念を、育児・介護・介助・看護・配慮などの上位概念として拡張して再定義することで、家事・育児に典型的にあらわれた「不払い労働」、のちに「再生産労働」と呼ばれるようになった分野に関わる理論が、すべて利用可能になるからである。(p.5)

日本では育児に対してケアという言葉はあまり使われないと思いますが、この点について、第1章で英語圏での使われ方が書かれています。

英語圏の「ケアcare」の語源は、ラテン語のcuraに由来し、「心配、苦労、不安」の意味と、「思いやり、献身」のふたつの意味で使われていた。哲学者の森村修は「ケアの語源のcura」には、「重荷としてのケア」と「気遣いとしてのケア」という対立する意味があった、と指摘する。ケアが前者の消極的な意味を持っていることは、記憶しておいたほうがよい。(p.36)

本文では「『育児』に限定されていた用法が、介護で看護で介助へと拡張解釈されていく」ケアという言葉の変遷が書かれています。


順番としては「看護と介護の『ケア』」に書いたように日本では看護から使われだして後に介護で使われるようになりましたが、むしろ育児にケアという言葉を使う機会はほとんどないかもしれません。



さて、この本では2001年にメアリー・デイリーらが定義した以下の定義を採用しているとのことです。

依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な欲求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係


<「ケアの人権」>


定義など少しかた苦しい話が続きますが、もう少しおつきあいください。


私がこの本を店頭でみつけて、ちょっと難しそうだし分厚い本だけど買おうと決めたのは、「初版への序文」に「4つの権利の集合からなる『ケアの人権』」という箇所を読んだからです。

1. ケアする権利
2. ケアされる権利
3. ケアすることを強制されない権利
4. (不適切な)ケアされることを強制されない権利

この3と4を私は探し求めていたことをはっきりと認識し、そして親の介護を施設に任せることもいけないことではないことに救われたのでした。
「家族だから親を介護するのが当然」「高齢者は自宅で家族に囲まれているのが幸せ」そうした価値観は、私と私の親の関係にはあてはまらない。そう思っても後ろめたさからは逃れられずにいました。


また、ケアする側として働いてきましたが、「退院後は家族のサポートがあるから大丈夫」とそれ以上はできるだけ考えずにきたように思います。


どの家族、というよりどの個人にも、3と4の権利があることにさえ気づかなかったのでした。


<「当事者主権」ニーズの帰属先>


さて、その序文では続けて「よいケア」と「当事者主権」について書かれています。少し長くなりますが、そのまま紹介します。

したがって「よいケア」とは、ケアされる者とケアする者双方の満足を含まなければならない。この議論は10章の「福祉経営」へとつながる。
それに加えて、本書において核となる規範的立場は、3章「当事者とは誰かーニーズと当事者主権」に展開した「当事者主権」であると言わなければならない。本書はケアの定義に複数の行為者による相互行為性を前提としているが、それと同時に、この相互行為の非対称性はいくら強調してもしたりない。ケアはニーズのあるところに発生し、順番はその逆ではない。ニーズは社会構築的なものであり、ケアの受けてもしくは与え手、あるいはその双方が認知しないかぎり、成立しない。そしてニーズの帰属先を当事者と呼び、そのニーズへの主体化が成り立つことを当事者主権と呼ぶ。

ケアは自然現象とは違う。ニーズー「必要」と訳されるーが認知されないかぎり、自ずから満たされることはない。赤ん坊でさえ、泣いたり身体の徴候によってニーズを表出し、それを養育者が認知することを通じて相互行為が成立する。「母性愛」が自然でも本能でもないことがあきらかになった今日、赤ん坊のいかなるニーズに応え、いかなるニーズに応えないかもまた、文化と歴史によって変化する社会構築的なものである。

ケアの受け手と与え手の関係は非対称である。なぜなら相互行為としてのケアの関係性から、ケアの与え手は退出することができるが、ケアの受け手はそうでないからである。この非対称な関係は、容易に権力関係に転化する。うらがえしにケアに先立って存在する権力関係を、ケア関係に重ねることもできる。家族の支配・従属関係、ジェンダー、階級、人権など、ありとあらゆる社会的属性が、ケア関係の文脈に関与する。このなかで搾取や強制、抑圧や差別が生じる。ケアの非対称性とは、このような社会的文脈におけるケアの抑圧性を、ケアする側・ケアされる側の双方から、問題化することを要請する。

もう、この序文だけでも読み応えのある本でした。
いえ、ちゃんと本文もしっかり読みこなさなければいけないのですが、それはゆっくり行間を読みながら時間をかけようと思います。


前回・今回のケアについてを踏まえて、また産後のトラブルについて続きます。






「ケアとは何か」まとめはこちら