行間を読む 30 <あまり理論化を急がないほうがよい>

「香辛料はどこからきたか」で紹介した「道のアジア史 モノ・ヒト・文化の交流」(同文舘、1991年)は、1987年に上智大学コミュニティカレッジで行われた講義内容をまとめた本のようです。


その中の鶴見良行氏の「マカッサル海道」で、そうそうこれが周産期のケアにも言えると膝を打つような文がありました。


少し長いのですが、その部分を全て紹介します。

 ですから、私たちがいかに地球のなかに見落としている人々がいるのか、つまりジャワだけがインドネシアではないぞ、ルソンだけがフィリピンではないぞ、人びとはほかにもいるのだ、といいたくて私はマカッサル海峡に目をつけて本を書いているのです。そういった学問を育てようとすると、さしあたって私は世の中の歴史や社会に、理論や構造があることは認めますが、いまのところは十九世紀にできた構造のゆがみを直すために、もう一回こまかな事実をきちんと出していくことが重要なので、あわてて理論とか構造とかを立てる必要はないと思うのです

 日本では理論は、たいへん失礼ですが女性のファッションと同じです。二、三年たつと忘れられていきます。だから、今のところはあまり理論化を急がないほうがいい。今第三世界でやらなければならないことは、事実をきちんと見ていくことです。そのためには、私が申し上げたように、歩くことが大切です。そこに出かけることが大切です。記録は残っていませんから、そこに行ってみて、考えることが大切だと思います。

 そして、景色をみる、そこで育っている生物、そこで採れる魚をみる。そして考える。ーーモノを考える。具体的に考えて行く。それで資料を残していく。

 ある程度堅い資料が各地方で少しずつ集まってきたら、そのうえで理論の再構築を図るということが重要になってくるでしょう。いまは、まだそういう時期ではないと思っています。それより今は少しでも歩いて、自分で見たことをきちんと記録していく。それからはじめないと、つぎつぎに出てくる新しい理論にふりまわされる。あそこの島にはこういう人たちがいて、こういう生きざまで暮らしていました、こういう形の魚を採っていました、その魚は、どこどこに運ばれていました、ということを、とにかく見て歩く。そのほうが私は、ながい目でみると、新しい東南アジア学を育てるのに、よいのではないかという気がしているのです。

<足で見るアジア>より  (p.73〜)


助産師になって二十数年以上たちましたが、出産・育児に関するケアはなんと流行りすたりが多いのだろうと感じます。


臨床で働く人もまたその流行りすたりの「理論」や「方法論」に影響されて、自らの観察の機会を先入観で曇らせてしまっている。
あるいは臨床の観察や経験が軽視されて、「理論」や「方法論」のほうが権威がでてしまう。


まさに、まさに、私の感じていたことが表現されている文章だと思いました。
そして、なんと「科学的な視点」に基づいた文章なのだろうと。






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