自宅で使っている胡椒は、S&Bの「コショー」です。
以前は粒状の胡椒を使ったりしていましたが、最近は、昔ながらのこの粉末になりました。
それにしてもお徳用40gで、200円以下の値段です。
こちらの記事で書いたように、私が小学生の頃の1970年代までは胡椒といえば粉末のこのコショーでした。
当時も、粉末のコショーであればそれほど高級という値段ではなかったと思います。
それでも「胡椒というのは貴重なものであった」、という大航海時代の知識ぐらいはありました。
でも「この胡椒はどこから来たのか」ということを考える事はありませんでした。
<香辛料を運ぶ海の道があった>
1990年代初めの頃に1年間過ごした東南アジアのある地域で出会った友人から、彼女の祖先の話を聞きました。
「胡椒やナツメグとかの香辛料を船であちこちの島に運びながら、インドネシアの方の島からここに住むようになった」と。
<国境のない時代があった>に書いたように、人や物が自由に南シナ海を行き来していた時代があり、今もそこに同じように暮らしている人たちがいることを知り、自分が知っていた「世界」というのはなんと狭い世界だったのだろうと思ったのでした。
帰国してすぐに村井吉敬氏に出会い、村井さんや鶴見良行氏がすでにそうした「東南アジアの海の道」に長い間関心を持って研究されていたことを知ったのでした。
「道のアジア史 モノ・ヒト・文化の交流」(鶴見良行・村井吉敬編著、同文館、平成3年)の中で、この香辛料の海の道である「マカッサル海道」について鶴見氏が書かれています。
そこでマカッサル海道ですが、北の方からいうとフィリピンの「南ミンダナオ文化圏」、インドネシアの「南スラウエシ圏」、「マルク圏」という順になる。マルクは、昔はモルッカといい、高校の世界史の教科書には香料諸島と記されています。
友人の祖先は、この香料諸島の一つの島出身でした。
鶴見氏は有名な「文化の東西南北の十字路」であるマラッカ海峡に対して、マカッサル海峡を「見捨てられた海峡」「裏街道」と書いています。
スペイン、ポルトガルを始め、西洋の国々が香料を求めてマルク諸島にやってきた重要な海域にもかかわらず「裏街道」と鶴見氏が表現するのは、そこにはプランテーション支配の跡がなく「実はマカッサル海道を使っていた人びとは、大まかにいえば、西洋植民地主義にしてやられなかった土地の人びと」だという理由からのようです。
こうした見方に、はっとさせられたのでした。
東南アジアの軍事政権・開発独裁政権による人権抑圧や貧困の問題を考える入り口として、まずは「植民地主義」からとらえようとするのではないかと思います。
あるいは多国籍企業やアグリビジネスへの反応もおなじく、ひとつの見方というものが強固にできあがってしまいやすいのかもしれません。
鶴見氏は「中央歴史主義史観への批判」の中で以下のように書いています。
大まかにいうと、ここは、植民地主義が見捨てた見落とした土地だった。だからこれらの土地について、植民地主義者はあまり記録を残していない。植民地主義者が記録を残したのは、彼らが利用したジャワやルソンです。そこが今日独立したインドネシアやフィリピンの中心になっている。権力の中心がある土地だけに焦点をあてて第三世界をみていくと、いつまでも、西洋植民地主義の設定した枠組みを引きずっていくことになる。彼らが見落とした部分を視野に入れてこなければならない。
そして学問もまた、この中央から見た歴史史観から書かれた書物を読み、現地に足を踏み入れたこともない人たちによって受け継がれていることを批判しています。
私自身、胡椒などの香辛料については「プランテーションで栽培され、西洋に収奪される地元の人たちが栽培している」というイメージを持っていました。
友人の祖父のように、自由に香辛料を持って島々を巡り交易が行われていたなんて想像したこともありませんでした。
歴史にはまだまだわかっていないこと、知られていないことがたくさんあるのだと鶴見さんや村井さんの本から学んだのでした。
いつかこの香辛料の海の道をたどってみたい。
30代の頃から心の奥にある「死ぬまでにしてみたいこと」のひとつです。
「世界はひろいな」まとめはこちら。