行間を読む 34 <アメリカの無償栄養プログラムWICについて>

アメリカで始まったネスレボイコットや母乳推進運動の背景については、「完全母乳という言葉を問い直す」「母乳推進の動きの始まり」あたりから、ダナ・ラファエル氏の「母親の英知 母乳哺育の医療人類学」(医学書院、1991年)を参考に紹介してきました。


その本を読み返していたところ、Meekさんが紹介してくださったアメリカ農業省の無償栄養プログラム、WICについて書かれている部分があることに気づきました。


この本が書かれたのは1985年ですから現在とはまた状況が異なりますが、このプログラムを通して全米の半数以上の乳児にミルクが無償配布されてきた歴史の一旦がわかる部分を紹介しようと思います。


 ウオーターブリッジで私が調査対象とした女性は全員WIC(議会指令による女性、乳児、児童のための特別食糧補給事業)から調整乳の支給をうけていました。 WICは妊娠中、授乳中の母親および5歳未満の子どもを対象に栄養の知識の普及と食糧の支給を目的として、1970年代、アメリカの主要都市に設立されました。 WICの証明書を持っている家族は牛乳、チーズ、卵、鉄分強化シリアル、その他、調整乳や栄養価の高い食物をただで手に入れることができます。この事業の背景には、幼時の栄養不良は大人になってからいろんな健康障害を引き起こしているという認識があります。いくつが調査が行われ、WICに予算を注ぎ込んでおくと医療その他の保健事業にかかる費用が節約できるという結果がでています。

 しかし、アメリカ政府はWICに関してどっちつかずの態度をとっています。小麦その他農業生産が過剰であればWICは議会の支持を得られるのですが、不足してくると事業縮小の法律ができてしまうのです。

 最近は、政府の政策上、WICの事業所が予算を獲得する条件として、そこで援助を受けている母親の一定割合が母乳哺育をしていなけばならないことになっています。また母乳哺育をしている母親には調整乳を支給しないという通達も来ています。すなわちWIC所属の母親は、母乳だけにするか全く母乳を止めてしまうかのどちらかを選ばねばならないわけです。母乳哺育をしている母親は母乳が不足したら、ミルクを買って補わなければならないとなると、予定よりもずっと早い時期に母乳をとめる事になるでしょうが、それは不幸なことです。政府の役人の中にはWICが調整乳を支給しなければ、貧しい女性は母乳哺育をせざるを得なくなるだろうという人もいます。そうかもしれません。でも調査結果が示すように、母乳哺育は成功する人もしれば失敗する人もいます。失敗すれば発展途上国の貧しい地域で見てきたように苦しむのは幼い命なのです。


1980年代の日本であればもっと自由に母親が授乳方法を選択できていたし、ミルクの無償配給はないけれど児童手当のように現金支給で臨機応変に対応できていたのではないかと思います。


そう考えると、この時代のアメリカの母親というのは粉ミルクの無償提供をアメとムチのように使われながら、母乳推進という政策に翻弄されていたのかもしれません。
そしてその背景には、余剰農産品をどうするかという別の政治経済問題があったのではないかと。


それに対して、ダナ・ラファエル氏は次のように続けています。

 アメリカの私企業を通して、間接的に母乳哺育を奨励していく方法もあります。たとえば雇用者に対して、若い母親が母乳で子どもを育てやすいような対策をとると、税制上有利にしていくといった動機付けは可能です。また小児科医の協力をあおいで、ミルク哺育だけよりも、少しでも母乳を併用した方が望ましいことを母親たちに説明してまわる方法もあります。
しかし全く一方的に貧困家庭に対して母乳哺育を強制するようなやり方は、大変な間違いなのです。母乳哺育の法制化はできないことです。

ここで注意が必要なのは、アメリカの当時の母乳哺育率の極端な低さです。
ニューヨーク市の市民病院は低所得者層の患者を入れていますが、1980年に出産した女性の82パーセントが母乳哺育ではないと回答しています」(p.133)とあるように、出産直後に母乳をあげるのを止めている率が高いのは、世界でも稀な国ともいえます。


そして貧困層や高齢者以外は公的な健康保険がない国ですから、幼少時から栄養状態をよくする保健政策は無償で行っても、国全体の医療コストの削減につながるということなのでしょう。
それが、現在アメリカで生まれる半数以上の乳児に無償のミルク配給を行う理由なのかもしれません。
そして乳業会社への批判や監視行動が必要となるほどの激しさも。


アメリカから始まった母乳推進運動もこうしたアメリカ社会の特殊性を考えずに取り入れてしまうと、もともと9割以上の母親が母乳または混合哺育をしていた日本の社会ではおおきなひずみを生み出しかねないと思います。


すでに母児同室・母乳育児推進で、疲弊しているお母さんたちの声をたくさん聞くこのごろです。


アメリカのWICについて書かれた部分を読みながら、その時代の新しい考え方として取り入れられていくものはもしかしたら反動から反動でしかなく、大事なことを見失っているのではないかと思えてくるのです。





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