記憶についてのあれこれ 44 <脱脂粉乳と牛乳>

豊かな国アメリカのイメージとは違い、全米の乳児の半数が無償栄養ブログラムの対象であることを読んで、私の幼稚園の頃の記憶が蘇ってきました。


1960年代前半、父の転勤で都内から山間部のある地域へと引っ越しました。
その時に通った幼稚園では、お昼に脱脂粉乳が出されていました。


大きなヤカンのような容器に作られた温かい脱脂粉乳が、アルマイトのお椀に配られるのです。
初めて飲んだ味に驚いたのか、いまだにあのにおいや味の記憶がはっきりとあります。
ただ、それほど嫌ではなく飲んでいました。



Wikipediaではこの脱脂粉乳について、以下のように説明されています。

保存性がよく、タンパク質、カルシウム、乳糖などを多く含んであり、栄養価が高いことから、戦後しばらく学校給食に用いられていた。
学校給食に用いられていたのは主にユニセフからの援助品である。戦後まもない頃の日本の食糧事情を知ったアメリカ合衆国の市民団体から日本の子供たちの為に実行した支援だった。

ララ物資は1946年11月から1952年6月まで行われ日本は脱脂粉乳の援助を受けた。ユニセフから日本は、1949年から1964年にかけて、脱脂粉乳などの援助を受けた。
本の学校給食では1950年代半ばから通常の牛乳に替わり始め、早くも1966年(石崎岳によると1963年に、札幌では姿を消した(地域にもよるが、遅いところでは1970年代前半まで供されていたと推定される)。


小学校の給食ではビンに入った牛乳が出されていたので、給食として脱脂粉乳を飲んだのはこの幼稚園の時だけでした。
Wikipediaを読むと、ちょうど私が幼稚園に通っていたのはこのユニセフの援助が終了する時期に重なっていたようです。


日本の子どもが食糧援助物資としての脱脂粉乳を飲んでいた最後の世代であることに、ちょっと感慨深いものがあります。


保存性や栄養価などを評価されることは多いが、当時の学校給食で用いられた脱脂粉乳の味を知っている者(団塊の世代など)には、これが美味しかったという評は皆無に近い。特に臭いが酷かったといわれるが、これは当時学校給食に供されたものは、バターを作った残りの廃棄物で家畜の飼料用として粗雑に扱われたものだからで、また無蓋貨物船でパナマ運河を経由したために、高温多湿で傷んだからという説もある。


私よりも一世代上の人たちには「美味しかったという評は皆無に近い」ようですが、私はそれほどまずいとは感じなかったのは、品質も輸送も改善されたのでしょうか。
むしろ小学校に入学してから飲んだ水のような牛乳に比べて、「幼稚園で飲んだミルクは味が濃くて美味しかった」と思いました。
そうそう、1960年代後半の小学校の給食では、この水っぽい牛乳に袋入りのカルシウムが一緒についてきた記憶があります。


その後、学校給食の牛乳はビン入りから三角のテトラパックに変わりました。日経新聞の「『三角パック』10年ぶり復活、日本テトラパック」(2014年7月20日)の記事では、「テトラパックの三角パックは1950年代から学校給食などで使われた」と書かれていますから、私の通った山間部の学校は少し遅れてテトラパックの牛乳になったのでしょう。


その頃から、学校給食の牛乳も味が濃くなったような印象があります。


そして1970年代ごろには、脱脂粉乳といえば援助物資ではなくて「スキムミルク」として箱にはいったものが店頭で売られていました。
私の家にもいつもそのスキムミルクがありましたが、保存性がよいので子どもたちには栄養のために、そして少し肥満気味だった母は脂肪分の少ないことで選んでいたと記憶しています。


1960年代までは子ども達の無償栄養プログラムとしての脱脂粉乳が、飽食日本へと変化し始めた1970年代にはダイエット食品へと用途が変わって来たとなると、ほんとうに10年ひとむかしですね。


そして私たち世代あたりから日本人の体格が向上したのは、粉ミルクの普及で乳児の栄養状態が改善されたとともに、この学校給食での脱脂粉乳や牛乳のおかげもあるのかなと思うのですがどうなのでしょうか。






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