記憶についてのあれこれ 49 <高速道路とハイウエイ>

最近、久しぶりに東名高速道路を走りました。
といってもペーパードライバーなので高速バスに乗っただけの話しですが、座席が一番前という特等席でした。


眺めが良いだろうと楽しみにして乗ったのですが、何だか変な感じです。
私が子どもの頃に走った時に比べて、高速道路の両側に高い防音壁で囲まれた部分がとても増えたのではないかと思います。
まるでトンネルの中をずっと走っているような感じでした。
私鉄沿線だけでなく、東名高速周辺も開通当時に比べて住宅地として開発されてきたことが理由でしょうかのか。


それでも周辺の様々な設備や風景は見飽きませんでした。
1966年に開通したのでかれこれ半世紀になるのですが、半世紀前にこれだけ頑強なつくりの高速道路を作った技術はすごいとあらためて思いました。
特に神奈川から静岡県境あたりの山の合間をいくつもトンネルが作られ、上り線と下り線がそれぞれ違う場所に作られながらまた合流していることに、子どもの頃は気づきませんでした。


これだけの距離の道路周辺の整備もまた大変な作業だろうと思います。
先日も、中央高速で倒木で運転手さんが亡くなるという事故がありましたが、ご遺族の思いとともに、日々管理をされていた方々の思いはいかばかりだろうと思いながら高速バスからの風景を見ていました。


パーキングエリアやインターチェンジ付近は、きれいに植樹されてその木々が目を和ませてくれます。
今は10m以上と思われる高さですが、半世紀前に植えられた頃はまだ小さな苗木だったのでしょう。どれくらいの大きさの木が植わっていたのか、子どもの頃の記憶がまったくなくて残念でした。


<東南アジアのハイウエイ>


1980年代半ばに東南アジアで暮らした時に、首都からの移動は「ハイウエイバス」でした。


車の天井までぎっしり乗客がのることが当然の路線バスと違って、エアコン付き、ゆったりシートのハイウエイバスは当時の日本なら旅客機のビジネスクラス級という感覚でした。


「ハイウエイ」、東名高速みたいな道路があるのかなと思いました。
ところが時速100kmぐらい出しているハイウエイも、ただの舗装道路でした。
道路には柵がないし、路肩のあいた所には収穫した穀物等を乾燥させていたり、普通に人が歩いています。
インターチェンジもありません。
それが「途上国の高速道路」というものなのだと思い込んでいました。


当時から「ハイウエイとは何か」気になっていたのですが、長年そのままにしていたことが、先日久しぶりに東名を通ったことがきっかけでわかりました。
そうなのですね。ハイウエイというのは「幹線道路、公道、本道」(weblio辞書)という意味であって、高速道路はexpresswayとかfreewayなのですね。
ユーミンも「中央フリーウェイ」と歌っていましたし。


たしかにWikipedia東名高速道路もTOMEI EXPRESSWAYです。


<高速道路とハイウエイと借金>


1980年代半ばに東南アジアのハイウエイと日本の高速道路の違いをみて、国の経済力の違いを感じました。


ところが、1990年代初めに村井吉敬(よしのり)氏と出会い日本の開発援助に関して学ぶことで、この東名高速道路も戦後の日本が海外からの融資を得て建設したことを知りました。
Wikipediaの「東名高速道路」の「歴史」に、「1966年、世銀から1億ドルの融資」とあります。


そしてその「世銀」にリンクされた部分にはこんなことが書かれています。

1952年に世界銀行に加盟した後、1953年から日本の借り入れが始まり、合計8億6,000万ドルを借り入れ、その資金は東海道新幹線などのインフラの整備に充てられた。やがて1967年には経済成長によって投資適格国から卒業し、1971年には日本は5大出資国のひとつとなって、1990年7月には世銀からの借金を全額返済することとなった。


そして借り入れ国から出資国になった日本は、東南アジアを初め世界中の国々に円借款あるいは無償援助としてお金を渡す側になりました。


私が使っていたあの「ハイウエイ」もまた、日本の円借款で建設された道路であったことを知ったのでした。





「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら