記録のあれこれ  33 八郎潟と戦後賠償

戦後賠償という言葉を間近に感じたのは1980年代で、当時、働いていた東南アジアのある国に「日本との友好道路」という別名があるハイウエイがありました。

「あなたのお父さんやおじいさんはあの太平洋戦争の時代に何をしていたのか」と私に尋ねてきたその国の人たちも、もちろんその道路建設の経緯を知っていました。

 

1990年代初頭に再びその国を行き来するようになったのは、こちらの記事に書いたように、たまたま住んでいた地域に日本の無償援助による漁港建設計画があり、地元の漁師さんたちがその影響を危惧していたことがきっかけでした。

その頃、政府開発援助について調査をしていた村井吉敬氏と出会って、元々は政府開発援助が戦後賠償から始まっていることを知りました。

 

自分の国にあるあの美しい水田風景もまた戦後賠償のひとつであったとは、不意をつかれた感じでした。

日本の戦後賠償というのは、日本側から相手国側へ資金や物資、技術などを供与するものだと思い込んでしたのでした。

Wikipedia日本の戦後賠償と戦後補償に「戦後賠償」の定義が書かれています。

戦後賠償とは、戦争行為が原因で交戦国に生じた損失・損害の賠償として金品、役務、生産物などを提供すること。通常は講和条約において敗戦国が戦勝国に対して支払う賠償金のことを指し、国際戦争法規に違反した行為(戦争犯罪)に対する損害賠償に限らない。

 

 

Wikipedia八郎潟の「歴史」の以下の箇所をなんども読み返しました。

第二次世界大戦後、食糧難および働き口のない農家の次男・三男が増加している問題の解決を目的として、干拓の先進国であるオランダから技術協力を受け、20年の歳月と約852億円の費用を投じて役17,000haの干拓地が造成された。この事業は、サンフランシスコ講和条約にオランダを批准させるため、賠償金の代わりにオランダへ技術協力費を支払いうる大規模事業をアメリカから求められていた吉田茂に対し、建設省の住宅局職員の下川辺淳(後の国土事務次官)が提案したものだった。 

 

最初に読んだ時には、「食糧難および働き口のない農家の・・・」という日本側の問題にまず目が行きました。何度か読み直すうちに、「サンフランシスコ講和条約にオランダを批准させるため」という箇所が八郎潟の歴史の原点なのではないかと思えるようになってきました。

後世でそれを批判するのは簡単だけれど、当時、関わった人たちは国を超えて人智を尽くしたものだったのかもしれませんね。

 

八郎潟ができて半世紀。

そろそろその全体像が研究された一冊が出ないかなと心待ちにしています。

 

 

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