景観と気持ち

前回の記事で、アレックス・カー氏が「日本に必要のない過剰な公共事業」「規制が不十分なことによる日本の醜い景観の一例」として高速道路の高架を挙げていることを引用しました。


私にとってはこちらの記事の<街の明るさ>に書いたように、高速道路が開通したときのぱっと目の前が明るくなったような印象が強く残っているので、あのインターチェンジや高架でいくつもの幹線道路が交差している周辺の風景は結構好きなのです。


「なるほど、人によって好き嫌いはいろいろだな」と思いました。


そういえば電柱の地中化についても、私は皆それを望んでいると思っていました。
ところが友人に「電信柱や電線がなくなったら、街の中もすっきりしていいのにね」と話した時に、肯定を期待していたのに反して「え?そうかなあ。私はどちらでもいいけれど」という答えが返って来ました。


友人の「地中化にはやや反対」のニュアンスの返事に、どのような彼女の気持ちや考えがあったのかはそのままわからないままになってしまいましたが、「景観」になると気持ちの部分が大きいのだと印象に残ったのでした。
かれこれ20年ぐらい前のことでした。


それ以降電柱を見るとふとこの会話が蘇って、「電柱を無くした方が良い」という考えに説得力をもたせるにはどういう視点がよいのかと、無意識のうちに考え続けていたような気がします。


前回の記事を書くのに検索していたら、2007(平成19)年に東京都建設局が出した東京都無電柱化方針という資料が公開されていました。
2016年のオリンピック誘致に向けて東京が立候補した時に作られたようです。


<「東京都無電柱化方針」より>


p.9に「諸外国や他都市の無電線柱化状況」があり、東京は7.3%とかなり低率であることがわかりますが、意外だったのは「ニューヨーク72.1%」「ストックホルム50.3%」でした。
欧米では100%電柱のない「美しい景観」であると、イメージで思い込んでいました。


p.3に「2 電柱・電線の現状」では以下のように書かれています。

都内に林立する電柱と電線は、良好な都市景観を損なうとともに、歩道の電柱は、歩行者や車いす、ベビーカーの通行の妨げとなっている。また、震災・台風等の災害時には電柱の倒壊や電線の切断が物資輸送や救援活動の支障となり、復旧を遅らせる要因となる。

たしかに、狭い道路では歩道部分に電柱が立っていることが多いので危険を感じますし、ちょっと苛立たせる存在でもあります。


ただ、電柱だけでなく道路を合わせた「機能」は本当に複雑で、限られた面積を最大限生かしながら、私たちの生活を守るためのインフラが組み込まれていることをつい忘れてしまいそうになります。

(1)景観と電柱・電線


道路は、歩行者や自動車等が移動する通行機能を有するとともに、電話や電気・ガス・水道・下水道などライフラインの収容空間としての機能を有している。ガスや上・下水道などは地下の管路によって供給されているが、電話や電気は主に電柱と電線によって供給されている。そのため都内には約95万本もの電柱が林立し、電線が輻輳しており、良好な都市景観を損ねている。

この資料は2007年のものなので、阪神大震災で電柱が倒壊している写真が掲載されています。
2011年の東日本大震災で都内で電柱が倒れたり電線が切断されたニュースは記憶にないのですが、実際にはどうだったのでしょうか。
そういう災害時には地上と地中ではどちらが復旧工事をしやすいのか、実際のところはどうなのでしょうか。


p.5の「(2) 歩行空間と電柱」に、世論調査の結果が出ていますが、電柱や電線に対して「生活に必要なものであるので、やむを得ない」と答えた方が34%います。
案外、受け入れられているのですね。


景観を損なっていることへの不快感や生活上の不便さと、生活に必要なものであり改善するにはお金も必要というあたりで折り合った数字とも言えるのかもしれません。


そして、半世紀前にはこうしたインフラの整備にも世界銀行などからの融資が必要だった日本が、当時に作られた社会基盤を景観への配慮を含めてより良いものにしてく段階に入った、しかも自力の経済力で。


電柱への感情的なもやもやが、自分の中でちょっと整理できました。