私の母は「自分には霊感がある」と信じています。
「ある日集会に出ていたら、そこにおばあちゃんとそっくりの人が目の前に座っていた。息が止まるほど似ていた。家に帰ったらおばあちゃんの訃報が届いた」
霊感があることのエピソードとして、今も1年に1回ぐらいは聞かされる話です。
それ以外にも、人里離れた道を運転していた時におばけを見た話もありました。同乗していた父は何も言いませんでしたが。
小さい頃から、自宅には占いの本や「たたり」「因縁」といった話題の本がたくさんありました。
こちらに書いたように、受験の前には占いやお祓いに連れていかれました。
私は自分が努力して合格したと思いたかったですけれどね。
まあ、私は私で星占いを信じていたので、五十歩百歩といったところでしょうか。
何につけ、霊や魂が飛び交っているかのように、心をぞわぞわさせる家でした。
<キリスト教と「霊」>
20代でキリスト教に関心をもち始めた時に、キリスト教で使われる「霊」というものがそれまで私の周囲で使われていた「霊」とは違うことに戸惑いました。
特に「父(神)、子(イエス)と聖霊」という三位一体や聖霊という言葉に、つまずきました。
いろいろな本を読んでも、私にはわからないのです。
でも少なくとも、たたりや因縁に関係した霊とは違うことに安心したのかもしれません。
心をぞわぞわさせたり昂揚感をもたらす霊とは違って、もっと落ち着いたものに感じられました。
Wikipediaの「霊感」の「聖書の霊感」にこんな説明があります。
啓示
人が理性的な追求によっては知り得ない神に関する真理、永遠に関する真理、救いに関する真理などを、神はその預言者や使徒を通して、人に語られる行為
たたりや因縁の霊、あるいはそれらを感じる霊感とは違う安堵感をキリスト教の「霊」に感じたのは、言葉で表現するとこの説明に似ていると思いました。
ただ、今でもキリスト教の三位一体とか霊性とかよくわかりません。
でもここ数年、「助産師と自然療法そして『お手当』」といったことを考え続ける中で、私がキリスト教のこの用語に感じる「難解さ」は、代替療法の用語や理論に感じるものに似ているなと思うようになりました。
「陰性と陽性の食べ物」とか「頭や骨盤のゆがみ」、あるいは「希釈すればするほど効果がある」など、何度読み返しても理解を超えて、私の頭の中には入ってこないのです。
こうした「理論」を記憶して理解できる人はすごいと思います。いえ、嫌味ではなく。
ただ、私自身は、「三位一体」とか「霊性」という言葉を理解できずにつまずいて良かったと思っています。
「理解できた」と思い込んでいたら、きっと宗教の教義や権威にのめり込んでいたと思います。
<年を取ると似てくる>
さて、冒頭の「おばあちゃんに似た人を見た直後に訃報を聞いた」話です。
私もちょっと似た体験があります。
10年ほど前、自宅の近くでそこにいるはずのない父を見かけました。本当にそっくりで、こちらの息がとまるかと思いました。
それからじきに、父が認知症になった連絡がきたのです。
あれは父(の霊)が何かを知らせようとしたのだろうか、とかなりゾクゾクしました。
今は、「高齢者というのは姿格好が似てくる」ことあたりがその霊的な体験の実態ではないかと思っています。
10年前はまだ両親ともに健康で、離れて暮らしているとたまに思い返すぐらいでした。
両親がだんだんと高齢になりいつも安否が気になるに連れて、すれ違う高齢者の方々に両親に似た人を見かける事が多くなりました。
年を取ると背格好や身のこなし、あるいは服装やかばんなども似てくるのでしょう。
そしてこちらもいつも両親のことを考えていますから、姿が重なって見える。
きっと母の「おばあちゃん似の人をみたことと訃報」の関係は霊感ではなく、そういう自分自身の気持ちの変化がもたらした偶然だったのだろうと今では思います。
そうこちらの記事で紹介した、「科学と神秘のあいだ」(菊池誠氏、筑摩書房、2010年)の「客観的には神秘でも奇跡でもないものが、個人にとっては神秘にも奇跡にもなる」の一文で、母の霊感のなぞが解けたのでした。