運動のあれこれ 7 <この世に楽園はない>

かれこれここ数年、あの東日本大震災以降ずっと考え続けて来たことに、そろそろひとつの決断をしようと思っています。


それは、20代から私を形づくってきたともいえるキリスト教と距離を置くことです。
もう少し正確に言えば、キリスト教への関心は旧約聖書新約聖書を読み解くことで続くとは思いますが、教会とは決別しようと思います。


広い世界に飛び出したいと思った理由の一つが、先輩後輩といった上下関係にがんじがらめの社会への息苦しさでした。
東南アジアで、初めて教会の礼拝に出席した時のPeace be with youというあいさつに、日本では感じたことがない解放感がありました。


日本に戻ってから教会へ通うようになり、どのような状況の人も受け入れ、その人のために祈る人たちがいることに感動しました。
「家内安全、商売繁盛」の祈りではなく、病んで礼拝に出席できない人の心の平安を祈り、あるいはさまざまな活動をしている人の状況を理解し、自分の考えや行動を見直すために祈る。
そして、教会につながる人がひとりでも孤独に陥らないように、実際に行動する。
そんな場があることに、驚いたのでした。
迷える1匹の子羊であった私が受け入れられ、東南アジアでの経験に耳を傾けてもらいました。


こんな楽園みたいな場所を作ろうと努力している人たちがいて、そして、その核になるのが聖書を「批判的に読む」ということでした。
決して、聖書をそのまま信じ込むことではないということも驚きでした。


それ以来、私自身は不規則な勤務のために礼拝に出席することは少なかったのですが、いつも気にかけてくださる方たちに精神的に助けられたと思っています。


ああ、でもやはり現実には楽園というものはないのだと実感したのが、東日本大震災の後からの変化でした。
正確に言えば、福島第一原子力発電所事故のあと、その教会は反原発の姿勢を打ち出すと決定しました。
原発は悪であり、その企業もそれを推進する政府も悪であるかのような考え方に見えました。


2ヶ月ほど考えてから、私の考えを伝えました。
確かに未曾有の大事故であったけれど、リスクマネージメントが徹底されたからこそ収束する見通しがたったこと、段階的に原発を他の発電方法に変える方向性を考えることは大事だけれど、現時点では私が勤務する医療機関でもあるいは社会のさまざまなインフラも原発なしには大混乱になることを考えると反原発という一つの答えが正しいわけではないのではないかと。
そして、反原発ではない私にはその決定は踏み絵であり、また原発関連の仕事に従事している人たちの声には耳を傾けることもなく、そして招かざれぬ客ということになってしまうことを危惧していると伝えました。


当時、kikulogやネット上で見ていた放射線被曝の不安とニセ科学の議論のような状況に、私自身も直面することになりました。


中南米や東南アジアの解放の神学、あるいはイスラム教の地域でのマスード氏のように、宗教が大きく人の背中を押して、現実の苦しみから前に進む勇気を与えてくれることがあります。


ただ、キリスト教の用語に感じる難解さにつまずいた私ですが、「正義感とは何か」につまづいたことも逆に良かったのかもしれないと思うようになりました。


「なぜ自分がここにいるのか」「自分は何者なのか」を問い続ける時に宗教という視点もあってよいと思いますが、ある宗教を信じればそこに楽園があるわけではないと、目が覚めたのでした。
そして楽園を作ろうとする宗教は運動であることに。


今は、聖書は失敗学であると思って、時々聖書を読みながら考えるくらいが、私には宗教とのちょうど良い距離感なのかもしれません。




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