行間を読む 44 <聖書は失敗学>

前々回の記事で引用した霊感の「聖書の霊感」に以下のように書かれています。


神によって開明され、示された真理を「記述」するに当たって、記者に対して与えられた聖書の干渉のことである。人は過ちを犯す者であるが、そのような人間が、神の真理を書き記し、伝達するにあたって、神は、霊感を記者に与え、彼らが正確、また十分の啓示内容を書き記すことができるようにした。これが聖霊による霊感の働きである。


「人は過ちを犯すものである」
聖書に関しての記述でこの言葉に出会うとは、ゾクゾクするぐらいの偶然でした。
というのも、最近、「聖書は人間の失敗学のようなものだなあ」と考え続けていたのです。


旧約聖書と出会う>


聖書には旧約聖書新約聖書があり、創世記や出エジプト記などの旧約聖書の物語もなんとなく知っていても、初めて聖書を読もうとする時に手に取るのは新約聖書からという人が多いのではないかと思います。


私の手元にある新共同訳の聖書でも、旧約聖書新約聖書のページ数は3:1ぐらいと旧約聖書の分量にまず圧倒されます。
また、「創世記」「出エジプト記」あたりまでは物語で読みやすいのですが、祭司の規定について書かれた「レビ記」あたりから読む速度が遅くなり、人口調査といった数字の羅列が多くなる「民数記」で挫折するかもしれません。


その点、新約聖書はイエスのたとえ話など教訓的な方向がはっきりしているので読みやすいですね。


聖書といえば新約聖書と思っていた私を、旧約聖書の世界へ誘ってくれたのが、犬養道子さん「旧約聖書物語」(新潮社、1977年)でした。


私がこの本を手にして旧約聖書を読み始めたのが1980年代初頭ですから、犬養さんがこの力作ともいえる著書を書き上げてすぐのことだったのですね。


<人間の失敗が書き綴られている>


聖書というと「聖典」でなにか威厳に満ちた書物というイメージを覆すほど、旧約聖書は人間の失敗を綴ったものであることを驚きました。


たとえば「創世記」の第3章「蛇の誘惑」は有名な部分ですが、蛇が「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と女を誘います。
最初は「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神様はおっしゃいました」と誘惑に負けないようにしていたのに、蛇の「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることは神はご存知なのだ」という一言で、実を取って食べ、男にも渡してしまいます。


あるいは、「人類最初の加害者・被害者」を表したカインとアベルの話も、兄弟間の親の愛情を巡る嫉妬から兄弟を殺害してしまうという「失敗」です。


出エジプト記では、モーゼによってエジプトの奴隷から解放され自由を得たはずの民が、荒野で「こんなに苦しい状況よりも奴隷の方がましだった」とモーゼに文句を言い始めます。


30代に入った頃から旧約聖書新約聖書を何度か通読したことを「数を数えるな」にも書きましたが、1〜2年かけて旧約聖書を一巡し、また始めから読み直すと、以前読んだ時には見えなかったものがまた見えてくるおもしろさがありました。


その面白さの正体が、「人間の失敗を綴っている」ことなのかもしれないと感じていました。


ちょうどその1990年代頃から、「人は誰もミスを犯すもの」という視点のリスクマネージメントが医療にも取り入れられたことを「医療安全対策について思うことあれこれ」で書きました。


「人は誰もミスを犯すもの」
だから医療事故もその個人を責めるのではなく、システムを見直して再発予防につなげる。
それは、この聖書を通した失敗学と赦(ゆる)しという思想なしには生まれてこなかったのかもしれません。





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