水のあれこれ 28 <「おまえの村に水はあるか?」>

サライコム・アラーム」というイスラム教の挨拶について書くために検索していたら、オマーンクラブのコラムの「アラビア語の挨拶」(2013年7月5日)におもしろい話を見つけました。


これが、オマーン人同志の挨拶であれば、引き続いて、「おまえの村に水はあるのか?」、中東らしい時候の挨拶がまるで「お返しのお返し」のごとく際限なく続くのです。


「おまえの村に水はあるのか?」
砂漠や乾燥した気候の地では、本当に大事な一言なのだろうなと、一時期暮らしたソマリアでの生活を思い出しました。


そういえば旧約聖書や新約聖書のここかしこにも、「水」や「井戸」の周囲での出来ごとが象徴的な意味を持って書かれています。


<イサクとリベカの結婚>


たとえばアブラハムの息子イサクが、その後結婚することになるリベカとの出会いも井戸でした。
アブラハムの僕(しもべ)が、イサクの結婚相手を見つけるためにその村に立ち寄ります。

「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。私は今、ご覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その1人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。このことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。


この祈りがおわらないうちにリベカが現れて、僕とらくだに水を飲ませます。
そしてリベカはイサクと結婚することになります。


「新共同訳 旧約聖書略解」(木田献一氏、日本キリスト教団出版会、2001年)では、この部分について以下のように説明しています。

町外れの井戸での祈りの中に、イサクの伴侶を識別する基準が示されている。その基準とは、見ず知らずの旅人に愛と慈しみに満ちた行為をなす女性であることである。井戸はもっとも女性が集まる場所。

ただ、「善い事をすれば報われる」「Happy end」にはならないところが、聖書ですね。


その後、イサクとリベカの間に双児のエサウとヤコブが生まれ、父イサクはエサウを、母リベカはヤコブをそれぞれ愛したことで、双児の兄弟は長子の権利を巡って骨肉の争いがおこります。


こんなところも、聖書は失敗学だなあと感じるところです。


そんなことを思い出しながら、この「おまえの村に水があるか?」という挨拶には、人と人の出会いから人生が変化していくことへの期待とか祈りのようなものも含まれているのかもしれないと思ったのでした。






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