気持ちの問題 10  <好きか嫌いかが正しいか間違っているかになりやすい>

「気持ちの問題」という言葉を聞いたのは、ニセ科学の議論の中でした。
半世紀ぐらい生きていて、こういう表現が私自身のアンテナにひっかからなかったのは何故だろうと、なんだかハッとさせられたのでした。


以来、「気持ちの問題」ってどういうことだろうと繰り返し考えています。


そしてその言葉が頭に浮かぶたびに、かなりの確率で思い出すのが新約聖書使徒行伝10章の「ペトロ、ヤッファで幻を見る」の部分です。

 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りてくるのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、ペトロよ、身を起こし、屠(ほふ)って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ。とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。


この部分はその後半の以下の部分にあるように、旧約聖書の律法で禁じられていたことから解放されていく場面という意味があるようです。

 「あなたがたもご存知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしにどんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」

20代の終わり頃から旧約聖書新約聖書を読み始めましたが、この箇所は「こだわりから自身を解放させる」という意味ぐらいで読んでいました。


ちょうど私自身も、ヴェジタリアンに関心があり、そしてまた徐々にこだわりから解放されていた時でした。



当時は、自分自身の好き好きでやっていることで人に押し付けているつもりもありませんでしたが、その動機には強い正義感がありました。
どこか、自分の考えや行動は正しくて、それを理解できない人を批判的に見ていたのだろうと思います。


私とニセ科学的なものについて考えているうちに、世の中の多くの「問題」は、自分が好きか嫌いか(そうしたいかどうか)という自分自身の感情にすぎないことが、いつの間にかそれが正しいか間違っているか、あるいは良いか悪いかという考え方へとねじれてしまうことが根底にあるのかもしれないと思うようになりました。


母乳とミルクの話題も、往々にして「自分がどうしたいか」で済むはずが、相手の考えや行動まで変える必要がある正しさと信じ込むことが、複雑なことにさせてしまっているのかもしれませんね。





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