観察する 39 <神は良しとされた>

最近、足繁く動物園や水族園、植物園へ通い、小学生のような疑問からいろいろと世界が広がる楽しさにはまっています。


最初の頃は、それまで見ていたようで見ていなかったことが見えるようになる楽しさや、「何故なのだろう」という疑問からその生物への関心と知識が増えることが楽しく感じていました。


最近は、さらにもう少しそれぞれの生物の細かなパーツが目に入るようになって、旧約聖書の創世記第一章「天地の創造」の「神は良しとされた」というひと言がふと思い出されるのです。


ハシビロコウの寝癖のような冠羽をじっとながめていると、本当にハシビロコウに似合っていて美しいなと思います。
あの冠羽がなかったらちょっと物足りなく感じるでしょうし、一見役に立たなさそうでも、その種には必ず備えられていると思うと不思議です。
そしてあの大きな体を支えていると体のバランスをみても、ただただ、すごい生物が生み出されたものかと感嘆しています。


不忍池の上を旋回するカワウを見ていても、水かきを体に密着させて長い首と体幹をバランスよくまとめています。
ああ、なんて美しい飛び方なのだろう。なぜあのような体が出来上り、そしてカワウは他の鳥とも違うカワウなのだろう。


それまでワニは漠然としたイメージしかなかったのですが、じっくり見ていて初めて、背中のあのボツボツ、オステオダームというそうですが、それが2列にきれいに並んでいることに気づきました。
あれがなければワニらしくないので、あのような突起に進化して来た果てしなく長い時間を考えては、ちょっと気が遠くなる気分です。


こうした小さな発見に、まるで「神は良しとされた」と言いたくなるような気持ちなのです。
きっと、全ての生物が「良しとされた」ものなのだと。



<創世記を読み直す>


最近、聖書の通読から遠ざかっていたのですが、「神が良しとされた」箇所を確認しようと読み返してみました。


第一の日に「光」が作られ、昼と夜が分けられます。
第二の日は「水と水を分ける」ことで、大空と水の区別がつけられます。
そして、水のあった場所が「乾いた場所と海に分けられ」ます。


読み返して初めて気づきました、この第二の「水が集まった場所を海と呼ばれた」という箇所で、初めて「神はこれをみて良しとされた」という言葉が入るようになるのですね。
私は、最初の「光」が作られたという時点で、「神は良しとされた」と言い始めたのだと勘違いして記憶していました。


さて、その後、第三の日に植物が作られ、第四の日には「二つの大きな光るものと星」、第五の日に「うごめく生物」で地を満たし、第六の日に人間を作り、そして第七の日は安息日とされます。


聖書というと、宗教的なものはちょっとと警戒感をもたれるかもしれませんが、この創世記が書かれたとされるのが前6世紀から前5世紀であることを考えると、何と明晰で現代の科学的な視点に繋がるとらえ方なのだろうと驚きます。


そして「神が良しとされた」という表現は、当時、観察に基づいて人間とその周囲の生物や環境を表現したものであったのだろうと思えるのです。
聖書は失敗学だと感じたものに通じるような、人間の思考や行動の観察に基づいた記述なのだと。


むしろ宗教、とくに旧約聖書から分かれたユダヤ教キリスト教イスラム教のほうが、そこから大きくそれて人間の都合のよいような運動にひっぱられてしまったのではないかと思いながら、創世記を読み返しました。


ただ、記録されている人間の歴史なんて、まだまだほんの最近のことに過ぎないほど、地球は長い時をかけて変化して来たのだと、時々、こうして動物園や水族園、植物園で気が遠くなりながらちっぽけな人間を感じるくらいが、傲慢になりやすい人間には必要なのかもしれませんね。


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