記憶につてのあれこれ 71 <天気予報と定点観測>

前回の記事で「定点観測」について書いたのですが、実はその言葉の本来の意味を知らなかったことにWikipediaの説明を読んでちょっとびっくりしました。

定点観測(ていてんかんそく)とは、海洋上の定点で行われた気象観測業務。


驚いた理由は、「海洋上」とかなり限定的であることと、「行われた」と過去形であったことでした。
今も普通に使われる言葉だと思っていたのです。


もちろん、Wikipediaの「定点観測の具体例」として、「インフルエンザ定点観測」「お天気カメラ」「交通情報カメラ」「峠の積雪カメラ」など、ニュースでも身近な定点観測はされているのですが、もともとの意味はかなり限定的であったのですね。


<海洋上で行われた気象観測>


<概要>にこんな説明があります。

気象観測空白地域を補うために国際的に定められた大西洋・太平洋上の特定の気象観測、高層気象観測、海洋観測などが行われた。最盛期には世界18の地点で観測が行われたが、気象衛星、海洋気象ブイなどに代替されて、日本が担当したX点、T点ともに1978年(昭和53年)までに廃止された。


Wikipediaの「定点観測」の外部リンク、「定点観測船のこと」にその観測船に載っていた人から聞いた話が書かれています。

終戦後の昭和22年(1947年)10月から始まったもので、天気図を書くのに必要な気象観測データが入らない空白地域を埋めるために、気象庁の観測員が海上保安庁の船に乗り込んで観測業務に従事しました。


南方(観測)定点は四国沖の東経135度、北緯29度の地点(室戸岬の南500キロ)にありましたが、定点観測船が現場に到着するとエンジンを停止し、波の間に間に漂流を開始するのだそうです。航走しないので舷窓からは風が入らずクーラーがない当時の船内はうだるような暑さで、旧海軍の千トンの海防艦を改造した船のために良く揺れたのだそうです。漂流中に船の残飯を捨てると魚が集まりそれをエサにするサメがいたので、夏は海で泳ぎたくても危険で泳げなかったのだそうです。1日に1度エンジンを起動して風や海流により流された分だけ戻り、決められた位置の50マイル(90キロ)以内に船が留まるように移動しました。

すごい過酷な状況ですね。


そして「定点観測」の本来の意味である「海洋上での気象観測」が終わる日について「定点観測船のこと」ではこのように書かれています。

しかし富士山頂の気象観測レーダーの設置や気象衛星「ひまわり」の運用開始などにより、定点観測は34年間に亘るその役目を終えて昭和56年(1981年)11月に廃止されました。


<富士山観測レーダーとひまわり>


海洋上での定点観測船については今回初めて知ったのですが、富士山レーダーについては、小学生頃からの記憶があります。
現在は富士吉田市に移されたあのレーダードームは富士山頂のシンボルでしたし、「富士山頂(小説)」は小説でも読んだし、映画も観た記憶があります。


1959年の伊勢湾台風では台風の接近と伊勢湾の満潮の時刻が重なったこと(異説あり)で大規模な高潮被害が発生し、死者行方不明者5,000人という大災害となった。これを受けて台風被害を予防する目的で、日本本土に近づくおそれのある台風の位置を早期に探知することが社会的要請となり、気象庁が対策として気象レーダーを設置することとなった。

もし私の父の運命が少し違えば私もこの世にいなかったあの伊勢湾台風からわずか数年であのレーダードームが完成し、私は子どもの頃からより正確な気象情報の恩恵を受けて来たのですね。


そして気象衛星ひまわりが打ち上げられたのが高校生の頃だったようです。


最近では東京アメッシュゲリラ豪雨にも対応しやすくなるほど、正確な天気状況や予報が当たり前のようにあるのですが、わずか半世紀前の過酷な海洋上での「定点観測」があったからということが、前回の記事を書くために知ったことでした。


ところで、なぜ村井吉敬氏の研究仲間は「定点観測」という言葉を知っていたのでしょうか。
私よりも一回り上の方々でしたから、こうした気象観測の歴史的な変化を高校生とか大学生の時に体験し、記憶していたからかもしれません。


わずか10歳の違いなのですが、同じようにその時代を経験していても違う視点での記憶が残っていく、あるいは記憶に残らないというのはおもしろいものですね。