長良川を眺め、長良導水の始まりを見て、次の目的地に向かうために長島駅に向かいました。
駅までのまっすぐな道路の右側には水田地帯が広がっていて、刈り残った稲穂がありました。大豆も植えられているようです。
道路のそばの電柱に、「ここの地盤は海抜ー1m」という表示がありました。
桑名駅から長島駅、そして次の弥富駅まではJR関西本線と近鉄線が並走しています。そのため、5分おきぐらいにそれぞれの列車が通過する音がしていました。
JR線は出たあとだったので、近鉄線で次の弥富へ向かいました。便利ですね。
午後は、この弥富を歩く予定です。
駅を降りて南西方向へと、最初の目的地である弥富市歴史民俗資料館へと向かいました。
大きな道路沿いをしばらく歩くのですが、「国道1号」と「375.5」の表示がありました。
江戸からここまで箱根の関所とか越すに越されぬ大井川とか、現代はなんなく2時間ほどで来れてしまうのですから旅にかかる時間はほんとうに驚異的な変化ですね。
そして女性が一人で何をするにしても世間の目があった時代を考えると、わずか30年ほどでも隔世の感があります。
国道の標識を見てそんなことを考えているうちに、水路が多い地域へと入り、木曽川の堤防が見えてきました。
その手前に弥富歴史民俗資料館がありました。
*弥富市歴史民俗資料館*
中に入ると意表をつくのが、ロビーに水槽があり、また文鳥がいることでした。
館内では、まずロビーの水槽に泳ぐ約20種類の金魚が目を引きます。弥富市は市販されている金魚のほとんどの種類を生産し、中でも高級金魚の産地として全国に知られています。江戸時代にさかのぼる金魚養殖の歴史は、実際に使われていた道具や映像などを見ながら楽しく学ぶことができます。
また、ロビーには白文鳥のぶんちゃんがいます。文鳥は金魚と同じ頃に弥富に来たと言われ、明治時代には突然変異により白文鳥が生まれました。生産者は近年減少していますが、かつては日本で唯一の産地として知られ、現在でも「文鳥の聖地」と呼ばれています。
(弥富歴史民族資料館のホームページより)
館内にあった「弥富文鳥マップ」には、「文鳥職員 ぶんちゃん、おもてなし職員(学芸員)」の肩書きが書かれていました。
パネルでは十六世紀の信長との戦いで一旦、焼け野原となったこの地が、輪中堤防や新田開発などで南へ南へと広がって行った歴史がパネルにまとめられていました。
「やとみを襲った大きな災害」として、天正地震(1586年)、濃尾地震(1891年)そして伊勢湾台風(1959年)について説明がありました。
この辺りの近世からの干拓の歴史と、伊勢湾台風についての当時の新聞記事や何枚ものパネルがあり、写真を撮らせてもらいました。
そういえば私が小学生の頃、家には文鳥がいました。
白文鳥ではなかったのですが、もしかしたら父がこの辺りで文鳥に出会ったのかもしれない。
地獄絵図のような災害派遣の中で、文鳥が慰めてくれたのかもしれない。
そう思うことにしました。
「やとみものしりブック」と「伊勢湾台風体験記」を購入して、いよいよ弥富の街を歩きます。
*水郷公園へ*
歴史民俗資料館から歩いて数分のところにある水郷公園に向かいました。
その手前に大きな水路があり、「木曽川用水 海部幹線水路」とありました。新幹線が木曽川を渡っている場所から下流約4kmの、祖父江のあたりに取水口があるようです。
木曽川左岸の堤防の近くに「高潮堤防補強工事と地盤沈下」と言う説明板があり、伊勢湾台風のあと6.7mの高潮堤が築かれたが、地下水汲み上げなどで1970年(昭和45)には70cmも地盤沈下があったと記されていました。荒川下流域の歴史を思い出しました。
地下水ではなく、木曽川中流・上流から水を確保する木曽川用水と高潮堤防がつながりました。
木曽川の土手を登ると、目の前に木曽川が広がりました。対岸は長島の街です。
ほんの一時間ほど前は長良川の雄大な景色を前にし、今は木曽川ですから、いかに大きな河川がすぐ近くに流れているかと実感しました。
「やとみものしりブック」の「水害とのたたかい」(p.22)にこう書かれています。
木曽川は地震や洪水によってしばしば流れが変わるため、治水は欠かせないものでした。天正14年(1586)の「天正大地震」を原因とする洪水により、木曽川の流れは東寄りに大きく変わり、ほぼ現在の流れになりました。
「地震や洪水によってしばしば流れが変わる」
どこまでもどこまでも土手が整備されている現代の「川」と、昔の人の「川」は異なるのですね。
しばらく木曽川を眺めて、次の目的に向かいました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。