記憶についてのあれこれ 78 <父と年金制度の移り変わり>

私が社会人になった1980年代初めの頃、年金制度や健康保険制度はすでに当たり前の感覚でした。
それはもうずっと以前、たとえば数十年ぐらい前からある社会制度だと思い込んでいました。
だから父も「年金だけは続けたほうがいい」と言ったのだと。

出産と医療について考えるようになって初めて国民皆保険制度もちょうど私が生まれた頃に始まった制度であったと、恥ずかしながら社会の流れが見えてきたのでした。


そして国民皆年金制度も同じ1961年(昭和36年)に始まった、つまり私が社会人になった頃は、まだ制度が始まってわずか20年ほどだったのです。
当時の社会は、すごい事業を成し遂げていたのだと改めて思います。


<父と陸軍の恩給と公職追放


国民皆年金制度が始まった1961年に、父は30代半ばでした。
父の世代は60歳定年、60歳から年金支給でしたから25年以上は給与から天引きされて支払っていたことにはなります。


それ以前の父にとって年金とはどのような制度だったのだろう、何を考えていたのだろうと知りたいと思った時には父の記憶がなくなってしまいましたし、母もよくわからないようです。


父はこちらの記事に書いたように陸軍の幼年学校から、士官学校の学生で終戦を迎えています。それぞれ5年間、計10年間、日本軍にいました。


Wikipedia年金の「年金制度の歴史」には以下のように書かれています。

日本で最も古い年金は、軍人への恩給であり、1875年(明治8年)に「陸軍武官傷痍扶助及び死亡ノ者際シ*並ニ其家族扶助概則」と「海軍退隠令」、翌1876年(明治9年)に「陸軍恩給令」が公布された。
(*は転換できなかったのでカタカナで表記)


戦前に年金制度があったのは軍人とごく一部の企業年金だったようです。
まだ日本社会のなかで年金制度が一般的でない時代に、父がその重要性を認識したのは、陸軍時代の恩給制度が身近にあったからかもしれません。


昨日紹介した「年金制度における改革内容について」に「公的年金制度の特徴」(p.5)として3項目挙げられています。
そのうちの「いつ障害を負ったり、小さな子どもがいる時に配偶者を亡くす(=所得を失う)かわからない」の意味が、軍人への道を歩んでいた父にとっては現実的な不安だったのかも知れません。



陸軍士官学校の学生で終戦を迎えた父は、しばらく公職追放の時期があったようです。


父からは公職追放時代の話を聞いたことはないのですが、認知症になってふと思い出した話をしてくれたことがあります。
きちんとした仕事に就くことが難しかった時に、たまたま東京YMCAで講師として採用してくれたこと、その給料で自分の母親や兄弟姉妹を経済的に助けながら、夜学の大学にも通ったようです。


その後しばらくして公務員として採用され、定年退職まで勤めたようです。


現在、父に振り込まれる年金は共済年金ですが、あの陸軍での学生としての10年間の恩給が支給されているのかどうかもよくわかりません。


いつ死んだり傷痍軍人になるかわからない不安の陸軍時代、そして先が全く見えなかった公職追放時代。
それが父にとって「年金だけは払い続けたほうがいい」という一言になったのかもしれないと、ようやくその一言の重みが理解できたような気がします。





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