海を眺めるのが好きです。
といっても、今は海岸まで出かける時間がなかなかないのですが。
80年代から90年代にかけて東南アジアを行き来していた時には、働いていた難民キャンプもいつも行く市場も、海岸沿いにあったので毎日海を見ることができました。
また漁師の人たちの家に泊まらせてもらったり、海沿いの集落で過ごさせてもらったり、今思い出すとまるで竜宮城で過ごした浦島太郎のような気分でした。
椰子の木の木陰には竹でできた椅子やベンチがあるのですが、誰もそこで海を眺める人はいませんでしかたら、いつも独り占めしていました。
海の何を眺めているのかというと、寄せては返すあの波のリズムを飽きもせずに見ていたのだと思います。
さわさわと椰子の葉が揺れる音と、波の規則正しい音。
何時間もそこでぼっとしていました。
あーあ、もう日本には帰りたくないな、このままこの国で生きたいなと思いながら。
<死を覚悟した高波>
低気圧や台風が通過することが増える今頃の季節になると、「高波に注意してください」という言葉を聞くことも増えるような気がします。
「高波」と聞くと、いつも蘇ってくる記憶があります。
80年代半ば、難民キャンプで知り合ったアメリカ人とオランダ人の友人に誘われて、秘境の洞窟を見に行くことになりました。
車では行けず、船で海岸沿いからしかたどりつけないとのことで、漁船を借りて出かけることにしました。
ちょうど6月の今頃の時期で、その地域では雨季に入っていました。
「雨季とスコール」に書いたように、時々ザーッとすごい雨が降るのですが合間には晴れるので、計画を立てた人もまさかこんなことになるとは思わなかったのだと思います。
漁船を借りるために立ち寄った村は、入り組んだ湾内にありました。
そこから外洋に出て行くあいだは、波もなく静かでした。
外洋が見えて来た時に驚きました。そこからはまるで別の世界のように、数メートルもの波が打ち寄せているのです。
「これは絶対に危ないから帰ろう」と私は言ったのですが、友人たちは「この村までくることもなかなかできないし、せっかく来たのだから行こう!」と引きません。
漁船を操縦していた漁師に「こんなに波が高くてはあぶないのでは?」と引き返した方がよいと言ってもらえることを期待して尋ねたのですが、「大丈夫。これくらいの波は」と言われてしまいました。
「まあ、死ぬときは死ぬときだ」というようなことをボソッといったのが聞こえました。
小さな漁船が数メートルぐらい浮き上がったかと思うと、ドンと波の間に落ちて行きます。
次から次へと大きな黒い波が迫ってくるのを見て死を覚悟し、船首に座り込んでその荒れ狂った波を見ていました。
最初は威勢がよかった友人達は船酔いでぐったりし、私一人が波を睨みつけていましたから、漁師さんに「日本人の女の子は勇敢だ」と言われました。
もう生きて帰れないと思っているときに、勇敢だと言われてもピンとこないものです。
40分ぐらいでしょうか、漁師さんが「あそこだ」と洞窟の入り口に近づいて行きました。
ぐったりしていた友人達は急に元気になり、秘境の洞窟にたどり着いたことに興奮していましたが、私は「もう一度、あの高波を乗り越えないと、生きて帰れない」ことの方が気になって秘境どころではありませんでした。
たぶん、帰るころには波が少し穏やかになっていたのだと思います。
でも私の記憶は、無事に漁村に戻って車に乗り込んて安堵したあたりからしかありません。
洞窟内を探索したことも帰りの船のことも記憶にないほど、死が現実に感じられた高波でした。
そしてベトナムから船で国外に脱出するというのはこういう恐怖なのだと、初めて少し理解したように思いました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。