帝王切開について考える 31 <帝王切開の胎児適応>

帝王切開からの回想が続きますが、今日はその中でも帝王切開の「胎児適応」についてです。


1960年代あるいは1970年代頃までの産科施設では帝王切開の「胎児適応」さえなく、母体救命優先であったことを考えると、その医療の進歩は驚くほどの速さです。


<1980年代の帝王切開の適応と要約>


私が助産師学生の時に使用した「母子保健ノート 助産学」(日本看護協会出版会、1987年)には、帝王切開の「胎児適応」として以下のように書かれています。

胎児に急速遂娩を必要とする合併症がある場合ー胎位、位置異常、上肢脱出、臍帯脱出、Rh血液型不適合、胎児形態異常、胎児仮死

そして「要約」には2点が書かれています。

1 母体が手術に耐えられること
2 胎児が生存し子宮外生活が可能と推定されること(例外:正常位胎盤早期剥離、子宮破裂、全前置胎盤


胎児が生存可能であれば、救命のために帝王切開が行われるようになった。
学生時代には当たり前のことと読み飛ばしていたのですが、考えてみれば私が生まれた半世紀前はこの一文はなかったのですね。


たとえば、「上肢脱出」というのは、分娩中に頭より先に手が出始めてしまうことですが、胎児の手を子宮内に戻すことはほとんど不可能ですし、手が出ている分、児頭が下がって来れないのでそのままではお産が終わりません。
帝王切開術が受けられない場合には、母体を助けるために胎児縮小術がやむなく行われていたようです。


帝王切開が「胎児適応」つまり胎児を生存した状態で子宮外に出すことを目指し始めたのは、ここ半世紀にも満たない期間なのだと、あらためて思います。


<早産と帝王切開術>


助産師学生だった1980年代後半に、NICUがある病院に実習に行きました。といっても、NICUの知識と技術は学生には難易度が高すぎて、ほとんどが見学実習だった記憶があります。


その頃は、27週ごろの1000gぐらいの赤ちゃんが無事に育ったのを見て、すごいなあと感動していました。


じきに、早産の定義が妊娠24週から22週になりました。
1990年のことです。
22週約500gぐらいの赤ちゃんでも救命可能になってきたことが理由であると聞きました。


この早産児の生存が可能になったことも、「我が国における帝王切開分娩の最近の動向」で紹介したように、「Late preterm児への医原性早産の増加」の一因でもあるようです。


早産の分娩方法については一人一人の状況により帝王切開にするか経膣分娩にするか、本当に判断が難しい領域なのだろうと、早産になりそうな妊婦さんを周産期センターへお願いする側で働きながら思います。


それでも半世紀前なら、「出てみないと生きているか死んでいるかわからない。育つかどうかわからない」状態の早産の赤ちゃんがいなくなった背景には、帝王切開に「胎児適応」という視点が増えたことにあるのかもしれませんね。


<「胎児機能不全」>


上記で紹介した教科書に「胎児仮死」とありますが、現在は使われていない表現で、「胎児ジストレス」そして「胎児機能不全」という言葉に変化しました。


これが私には最も身近な帝王切開の、特に緊急帝王切開の「胎児適応」です。


分娩進行中に胎児心拍が徐脈になったり頻脈が続くと、「この赤ちゃんはこのまま分娩に耐えられるかどうか」とこちらも緊張します。
内診所見や分娩監視装置のデーターをすり合わせながら、産科医の先生と相談していきますが、そこにあるのは「赤ちゃんを元気なうちに世の中に送り出したい」という思いです。


当たり前のように聞こえるかもしれません。
私も当たり前だと、あまり深く考えてきませんでした。


こうしてお産の歴史を振り返るようになって、「赤ちゃんが元気なうちに」という「胎児適応」が産科学に登場したのも、そう昔のことではないと改めて思うようになりました。


たしかに「我が国における帝王切開分娩の最近の動向」に書かれているように、この分娩監視装置の出現と浸透が「帝王切開率の上昇の原因」でもあることでしょう。


でもあの胎児心音ががたがたと落ちてこちらの心臓が止まりそうになる状況で、無事に帝王切開で産声を聞くことができる喜び、そしてその後元気に育っていく赤ちゃんが増えたことでもあると思います。


分娩監視装置に関しての過去の記事はこちら。

「胎児生存を客観的に確認する方法」
「胎児はどのような存在だったのか」
「ドップラーとCTGのトリビア」
「CTGと助産婦、1970〜90年代の変遷」
「産婦さんの快適性と胎児の快適性」
「RQ. 分娩時胎児心拍数の観察は?」
「CTGノ普及と助産婦の『自然なお産』の時間的なずれ」