帝王切開について考える 30 <戦前から戦後の帝王切開についての文献より>

1980年代終わり頃に助産師になった当時、予定帝王切開でもあるいは分娩進行中に異常があって緊急帝王切開になっても、「あ、これでお母さん赤ちゃんともに無事にお産が終わる」と心の中ではほっとするところがありました。


その後は帝王切開にも10年やってわからなかった怖さがあり、またつくづく手術療法とは人生の一大事であると思うようになりましたが。


それでも、分娩進行中に赤ちゃんの心音がどんどん下がったり、吸引分娩や鉗子分娩を試みても赤ちゃんが下がってこない時に、帝王切開へと方針が決まると膝ががくがくと崩れ落ちそうな感じで安堵感があります。
「母子ともに安全に分娩が終了する」
この究極の、とも言える私たちの目標の最後の切り札という感じです。


こんさんからいただいたコメントがきっかけで「帝王切開を考える」を書き始めたのですが、昔の帝王切開についてほとんど知らないことに気づきました。


「昔の帝王切開
そう半世紀以上前、私が生まれた1960年代初めの頃より前の帝王切開についてです。


検索していたら、いくつか戦前から戦後の帝王切開についての文献がありました。


<戦前から戦後の帝王切開率>


「日本総合愛育研究所紀要 第7集」の「妊娠分娩産褥の母体生理に及ぼす影響(2) 2 帝王切開術後の分娩」帝王切開率についての記述が何カ所かあります。

我国の帝切率は、戦前は1%前後であったが、戦後は抗生物質の使用による感染の予防、手術々式の改良、麻酔法の進歩、輸液、輸血療法の進歩等により手術そのものが容易かつ安全に施行できるようになったことに加えて、X線による骨盤計測の技術が確立されてC.P.Dの診断が分娩前に可能になったことなどから、年々増加の傾向が見られている。昭和31年1月より昭和35年12月までの5年間の帝王切開率は、孫の全国調査によれば3.79%であるが、次の5年間の全国平均は下村によれば4.82%と増加している。


この紀要は1971年に出されたもののようですが、昭和31年から35年までと、次の5年間の比較については1961(昭和36)年の国民皆保険が大きく影響しているように思えたのですが、この文では手術そのものの安全性の向上に主眼が置かれているようです。


つまり、自費で帝王切開を受けなければいけないという経済的制約だけでなく、医師側も安全性の面から帝王切開に躊躇する時代が昭和30年代まであったのでしょうか。


戦前から昭和30年代前半ぐらいまでは、どのような帝王切開のリスクがあったのでしょうか。


<1964年の文献より>


CiNiiの文献検索に、1964年の日本産婦人科学会誌に掲載された「最近25年間における帝王切開分娩時の母、児死亡率、術後合併症の変遷」という日本赤十字社本部産院の論文の抄録がありました。

1.日本赤十字社産院における昭和11年より昭和36年6月に至る満25年間における帝王切開実施1238例について、これを戦前、戦時、戦後および最近期に分類して、母、児の予後に対する検討を行い、その変遷を追求した。2.母体死亡率は昭和11年〜16年9.52%から最近期1.47%と低下した。3.児の周産期死亡率も戦前30.95%から6.81%へと低下したが、尚高率である。4.術式の上から母、児の予後を見ると、膣式は戦後行われていないが、この際には児の死亡率が高いのみならず母体死亡率も高く、Porro氏手術でも同様のことがいえる。5.帝王切開時の出血量は子宮収縮剤の使用の有無に拘らず、25年間著しい変化を見ず、601cc以上の症例が20%にも見られ、その対策を考慮する必要がある。6.母体の術後合併症中37.5℃以上の発熱を40%以上にも見る。又最近耐性菌による感染が認められた。7.術創不全は非破水群では少ない、但し破水後経過時間との間に優位差をみない。8.適応の上から予後を見ると、母体死亡率は減少しても尚今日晩期妊娠中毒症、心、肺疾患、出血に留意する必要がある。9.常位胎盤早期剥離群では今日尚50%の児死亡を認め、子宮破裂、前置胎盤群での予後も悪い、又児適応による帝王切開術が最近縷々行われるが、児の死亡率は高率で、17.24%であり、この点に十分留意すべきである。10.非破水群の児の予後は最近0.99%の死亡率で極めて良好であるが、破水群では低下したといえ尚高率である。しかし破水後の経過時間の長短とは関連はない。11.体重別に児の予後をみたが2000g以下の未熟児では以前として70%余と予後の改善をみないし、未熟児では予後が依然として不良であるが、2501〜3500gの生下時体重群の児死亡率は好転している。


私が助産師になった頃、「帝王切開による母体死亡率」や「帝王切開による児の周産期死亡率」という言葉さえ考えることもないほど、帝王切開は安全な手術という認識の時代になっていました。


今、50代前後の世代のその親が出産していた頃は、帝王切開で生まれた赤ちゃんでも生後1週間ほどで亡くなり、また帝王切開で命を失うお母さんもまだ多かったのですね。


<「母体適応」しかなかった時代>



もうひとつ、昭和34年に岡山大学医学部参加婦人科教室から出された「腹式帝王切開術の統計的観察」という論文が公開されていました。


当時の大学病院での帝王切開率の頻度が以下のように書かれています。

我国に於いては小畑、1.34%(10,000例中)、0.83%(29,308例中)、平林0.83% (東大26,435例中)、金田1.35%(東北大8,036例中)、菱田2.12%(東京賛育8,918例中)、山口・矢吹2.33%(九大8,057例中)、久慈・藤井1.03%(東京日赤67,053例中)等が代表的なものである。当教室は10,000例中91例で0.91%(1.08≧p≧0.76%)のやや低率を示している。


1959(昭和34)年当時、大学病院ではこんなに低い帝王切開率だったのですね。


この論文を読んでいて気づいたのが、「胎児適応」という言葉がないことでした。


帝王切開をするための理由には「母体適応」と「胎児適応」がありますが、まだこの時代には「胎児を助ける」ための知識や技術が不十分であったのでしょう。1970年代までブラックボックスだったのですものね。


岡山大学での「母体適応」には、「高年初産婦(30歳以上)17例18.6%」「前置胎盤16例17.5%」「骨盤異常16例17.5%」「子癇および子癇前症11例12.0%」「胎盤早期剥離7例7.8%」「腫瘍6例6.6%」などと書かれています。


この母体適応については、高年初産の定義が変わったことはありますが現在でも概ね同じです。ただ、最近は「母体合併症(ヘルペス外陰炎、重症心疾患、精神神経疾患)」あるいは「不妊治療後」などが加えられています。(「周産期医学必修知識第7版」より)


当時の岡山大学の母体死亡は「91例中4例で4.99%」で、その内訳は前置胎盤2例、子癇および前症1例、胎盤早期剥離1例とあります。
出血による母体死亡なのだろうと思うのですが、「切創の化膿し*開は91例中10例(*口偏に多)」「術後38℃以上の発熱は29例に見られ4日以上持続した例には重症産褥感染症が認められた」とあるように、術後感染が多いことにも驚きます。


感染に関しては、「ペニシリンの登場により久世は破水後帝切に於ける母体の化膿又は死亡例はほとんどないとの報告のごとく抗生物質の発達はこの見解を訂正していくものと思われる」と書かれています。


半世紀前の日本の帝王切開
母体を助けることが優先であり、さらに帝王切開をしても母体が助かるかどうかは賭けのような判断だったのかもしれません。


そして多くの国民は、その帝王切開を選択するほどの経済力がない時代が、日本のそう遠くない昔の現実だったのですね。