食べるということ 3 <こどもがひとりで食べる>

私の父は定時には終業する仕事でしたから、子どもの頃から夕食は6時に家族全員そろって食べていました。
友だちも官舎に住んでいる同じような家庭環境が多かったので、夕食というのはそういうものだと思っていました。


電車通勤していると夜8時台9時台に帰宅する人がたくさんいて、お父さんとあるいは家族そろって夕食を食べている家庭というのはもしかしたら少ない部類に入るのかもしれないと思ってしまうほどです。


さて、doramaoさんの『5つの「こ食」』の中に「こどもが一人で食べる」ことが挙げられています。


こどもが親(おとな)と食事をすることが当たり前の社会では、こどもがひとりで食べている光景というのはなんだか切なくなるような情景に映るのかもしれません。


<世界はひろいな>


ところが1980年代から東南アジアで暮らしてみて、こどもがひとりで食べることが問題でもない社会があることを知りました。
いえ、こどもだけでなくおとなも。


プランテーションで働く人の家にホームステイさせてもらったり、漁村や農村あるいは少数民族の村などに寝泊まりさせてもらって一緒に食事をしていました。


外国人のお客さんと一緒に食べることの気恥ずかしさのようなものがあるのでしょう、こどもたちが私と一緒に食べようとはしない理由を最初はそう感じていました。


でも2日、3日と一緒に生活をしてその家のこどもたちと仲良くなっても、そして居候生活が何ヶ月目になっても、不思議と食事の時にはどこかにいなくなってしまいます。
日本のように、家族そろって「いただきます」から食事が始まる光景はほとんど目にしたことがありませんでした。


料理を準備している時に食べているのかな、あるいは私が食べ終わったあとに食べているのかなと気になってみていたのですが、何かを食べている気配すら感じないこともあるのです。


「こどもたちの食事は?」と尋ねると、「学校帰りに何か買って食べているからいいの」という答えが返ってきました。


お父さんは朝早く起きて自分で朝食と昼食の準備をして、こどもたちが目を覚ます頃にはプランテーションで働き始めています。
夕方はビールを飲んで早々に寝ていました。


そろって食事をしているのは、その家の奥さんと就学前の幼児だけといった食事風景でした。


その地域で一緒に食事をする機会はいろいろとあったのですが、おとなもこどもも三々五々、好きな時に食べ始めて食べ終わるという印象が残りました。


こどもたちはみな素直で、照れ屋さんでした。
「途上国のこどもたちは目が輝いていて・・・」という表現になるとちょっと違うのかなとも思うのですが、何か日本とは違うこどもの姿を感じることはありました。
まあ、単純な一般化はできないのですけれどね。


ただ、こどもがひとりでしかも家族と違うものを食べていてもこうした社会もあるのですから、「それをしてもしなくてもかわらない」ことを「弧食」や「個食」として問題視して「食育」と表現することに違和感を私は感じるのです。
そして問題の本質はそこではないのだろうな、と。




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