乳児用ミルクのあれこれ 29 <「育児用乳製品の店」があった時代とは>

先日、マツコ・デラックス氏の「夜の巷を徘徊する」という番組で、葛飾区の立石仲見世の様子が放送されていました。


その中で目を引いたのが、「育児用乳製品の店」という古い看板がそのまま残されていたお店でした。
検索すればけっこうそのお店の写真が出てきます。
ただ、そのお店の歴史まではわかりませんでした。


このお店ができた時代はいつ頃なのだろう。
気になっています。


<「ミルク発達の歴史」より>


前回の記事で引用した「母乳が足りなくても安心」(二木武・土屋文安・山本良郎氏、ハート出版、平成9年)の中に、知りたかった乳児用ミルクが作られた時代の様子が書かれていました。

乳の化学成分の認識確立


 ドイツの大科学者リービッヒ(1803〜1873)は食品の化学分析方法を確立し、これが乳汁の分析に応用されて、同じく乳といっても、人乳と牛乳ではその組成に大きな相違があることが、認識されるようになってきました。蛋白質やミネラルの多い牛乳を人乳に近づけるために、牛乳を希釈し、不足する熱量を糖質で補うという考え方は、現在の調整乳の始まりです。
 このような考え方にたって、リービッヒは1867年に「完全乳児食」と名付けて世界最初の市販育児乳をつくりました。しかし、この試みは「完全」とはほど遠いものであったようです。一つには、見かけ上の主要成分を近似させただけでは、栄養生理学的に同じ効果がえられなかったことは、今日の知識から見れば当然ですし、二つには、ビタミンや微量元素などの微量栄養素に関する知識が欠如していたことにあったのです。

微量栄養素の発見


 20世紀に入り、農芸化学鈴木梅太郎博士(1874~1943)のオリザニン(現在のビタミンB1)の発見(1910年)に始まり、各種のビタミン類や銅・亜鉛などの微量元素の栄養素としての必要性がぞくぞくわかってきました。これらを微量栄養素といいます。
 鈴木博士の研究のきっかけには、脚気問題があったのです。当時、人工栄養に限らず、母乳栄養においても脚気は大問題で、母乳中毒症、人乳中毒症、乳児脚気脚気母乳、不良母乳などという言葉が、明治・大正の小児科学会誌に頻繁に見られます。
 そのころ、乳児死亡率が1918年(大正7年)に1000人あたり188.6、つまり生まれた赤ちゃんの6人に1人以上が1年以内になくなるという最大の数字を示しています。(以下、略)

乳加工技術の進歩

 衛生や栄養に関する科学がいかに発展しても、これを実地に応用する技術が伴わなければ画に描いた餅に過ぎません。19世紀後半に入り、牛乳をはじめ食品の処理加工の技術にもまた多くの発明・創意があり、加糖練乳、無糖練乳、粉乳などの乳製品が作られるようになりそれらが育児に用いられるようになりました。

近代わが国の乳児栄養の変遷


 明治時代からしだいに牛乳も生産されるようになり、育児にも利用されるようになりました。しかし、1920年代までは加糖練乳(コンデンス・ミルク)、それも多くは輸入品が人工乳の主流を占め、ようやく大正時代中頃から、育児用粉乳として、キノミール(和光堂/1917年)、ドリコーゲン(森永/1921年)、パトローゲン(明治/1928年)が市販されるようになりました。パトローゲンは、前記の鈴木梅太郎博士が開発したもので、ビタミン類が強化された今日的意味での調製粉乳の第一号といえるものでした。
 しかし、乳児栄養の実情は、岡山大学名誉教授の浜本先生が「1930年頃、私どもは毎夏、京都の大学で乳児栄養障害児の大群が死んで行くのを、ただ手をこまね悲しむだけでありました」と述べておられるような状態であったのです。
 昭和10年に入り、乳児脚気が学会誌から姿を消したように、栄養学の進歩が効果を表してきたのもつかの間、大戦に突入して行くわが国では、物資欠乏が乳児栄養にも暗い影を落とすようになってきました。「無乳栄養」といって牛乳を使わず、大豆粉、煮干粉から、はては蚕の蛹やイナゴまでが粉乳代用に研究されたりしました。牛乳がなくなったのは、もともと当時のわが国では牛乳の生産量がわずかであったうえに、アルミニウムの不足から木製の飛行機が作られ、その接着剤として牛乳淡白質の八割を占めるカゼインが必要になったからです。大戦末期から戦後にかけて、愛育病院では「玄米乳」のみで0歳児を育てたと内藤名誉院長が述懐しておられるように、まさに苦難の時代でした。
 このような時代にあっても、1941年に牛乳営業取締規則に「調製粉乳」が制定され、1942年には大政翼賛会乳幼児栄養委員会から、我が国の調乳案(ミルクを溶かす濃度、授乳する量と回数を指示する案)が発表されるなど、制度的整備が行われました。しかし、実際には1941~1950年は戦中戦後の物資統制時代であり、統制物資として15%および35%加糖粉乳(全脂粉乳に砂糖を15または35%加えただけの粉乳)が、わずかに製造されたに止まりました。大政翼賛会調乳案が2ヶ月までを2分の1牛乳(牛乳1に水1を加える)、3ヶ月以降を3分の2(牛乳2に水1を加える)としたことは、第2章にあったように当時の知識として消化不良などを防ぐために牛乳を薄めるという考え方によるものですが、牛乳節約の底意がなかったとはいえないのではないでしょうか。


「育児用乳製品の店」
もしかしたら、この1940年代から50年代ぐらいまでの「牛乳を薄めて育児用に販売していた」時代の名残かもしれないと想像しました。


牛乳販売を家業にされていた方々だと、なにか歴史をご存知かもしれませんね。





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