気持ちの問題 45 <時々、「奇跡」が起きる>

電車で週刊誌の中吊り広告に、こんなものを発見。

急に元気になったり、穏やかになるのはなぜか?
「終末期覚醒」「お迎え体験」の謎に迫るー
「死の瞬間」に奇跡が起きる


まあ、真夏ですからね。
ゾクゾクさせる記事をひとつは入れたい、といったところかもしれません。
中身は読んではいないのですが。


先日、「存在そのものが奇跡」として、父が体調を崩すたびに不思議な「回復」を見せることを書きました。


以前だったら、ブログを書いた直後に同じ様な経験が広告に乗っていることに、「なんという偶然だろう。奇跡的だ」と鳥肌を立てていたのではないかと思います。
ところが、今は「低い確率だけれど、たまたま同じことを考えた人がいた」ぐらいの感想です。
「客観的には神秘でも奇跡でもないものが、個人にとっては神秘にも奇跡にもなる」(「科学と神秘のあいだ」より)ですからね。


新約聖書の中の「奇跡」>


「奇跡」は日本語であることに疑う余地はないのですが、Wikipedia奇跡を読むと、「聖書にはモーセやエリヤやイエスなどがさまざまな奇跡を行ったと記述されている」とし、「どちらかと言うとキリスト教などを中心として用いられる用語」と書かれています。
仏教では「霊験(れいげん)」という言葉が使われるようなので、いつごろからこの「奇跡」という日本語が生み出され、日本の社会でどのように受け止められながら広がったのでしょうか。


たしかに、旧約聖書の「出エジプト記」はモーセが呪術を駆使して奇跡的にユダヤの民を解放する様子が書かれていますが、「自然現象を巧みに利用した」とも読める部分です。


それに対して新約聖書では、イエスが「病の人を癒す、治す」奇跡があちこちに書かれています。
精神疾患を患っていた人から悪霊を取り除いたり、皮膚病を治したり、あるいは中風(脳卒中)で寝たきりの人が歩けるようになったりといった話が有名です。


聖書に書かれていることをそのまま信じる原理主義的な立場の会派であれば、これを「神の力」ととらえるのかもしれません。


ところが、旧約聖書には癩病について、診断方法や隔離期間、治癒の証明など、「紀元前」とは思えないほど詳細が観察され、規定が作られていたことが書かれています。
現代の医学からはもちろん、比べものにならないレベルですが、近代医学に通じるものがあると感じます。


それなのに、なぜ新約聖書では「奇跡の回復」が強調されるのだろう。
ずっと、そのあたりを疑問に感じていました。



<父の顔を見ていると不思議な感覚に陥る>


父の病室に入ると、いつもシーツがピシッときれいに整えられていて、髭も剃ってもらいツヤツヤの肌で眠っています。


時々、覚醒して苦渋面になるのですが、また眠りに落ちていきます。
はっきりと覚醒しているときもあり、私の方をじっと見つめているとその目に吸い込まれそうになります。
スタッフの方からも、「きれいな目ですね」とほめていただくほど、澄み切った目をしています。


どこかで見たことがあると、父の表情を見ながら考えていたのですが、「そうだ。達磨大師だ」と思い出しました。
私が子どもの頃に、父の書斎に飾ってあった達磨大師の絵です。
眉毛のあたりがはっきりしていて、少し怖そうな表情なのに、どこか魅き込まれるような顔でした。
「達磨さんは、坐禅をし続けて手足がなくなったんだよ」
そんな話をしてくれた記憶があります。


Wikipediaを読むと、たしかにそんな伝説があるようです。

達磨が面壁九年の坐禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは縁起物として現在も親しまれている。


なんだか、目の前の手足を動かせない父が、坐禅の修行中達磨大師と重なって見えてきました。
そして、いつも穏やかで誰にでも何にでも感謝する父の姿が思い出されて、修行中の父がふと動き出したりしゃべり出したりするような錯覚を覚えるのです。



新約聖書の病から治る話も、もしかしたらそんな感じのちょっと希望的な妄想なのかもしれないと、ふと考えたのでした。




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