事実とは何か 4 <映像に映っているもの>

東南アジアを行き来していた頃は社会問題に関心が強かったので、新聞記者やフリーのルポライターといった方々と知り合う機会がありました。


特に、フリーでこうした社会問題を追っている人たちは、どうやって取材費や生活費を捻出していくのだろうとこちらが心配になるほど収入にはなりにくい状況の中で、危険な地域にも出かけ「事実」を追い続けていました。


私がフィクションよりもノンフィクションのルポタージュなどが好きなのも、それを書いている人の姿にも親近感を覚えるからかもしれません。


当時、出会ったそういう方々は主に写真と文章で表現していましたが、中には映像として記録する方もいました。


私が暮らしていた地域は、政府軍による掃討作戦のニュースが日常的にテレビで放送されているような地域でした。


そこで1人の日本人に会いました。
以前、日本の公害問題について有名な記録映画を作った方らしいのですが、当時は、日本とその地域を月単位で行き来して、地元の人から情報収集しながらその内戦状態の決定的な映像が撮れるまで待っているというような話でした。


私はその内戦で国内難民になった友人やその国内でさえその状況が伝わらず「なんとかして外に伝えて欲しい」と活動している人たちと常に行動していましたし、その内戦状態が日本の生活とも無縁ではないことに心を痛めていましたから、その人が「ゲリラの掃討作戦の場面をうまく撮れるまで待っている」ことに私の正義心が強く反発したのでした。


「その内戦を食い止める方が、今、すべきことなのではないか」と。


当時は私も感情的に反発してしまい、その人のもっと違う思いを汲み取っていなかったかもしれませんし、もう少し話を伺えばよかったと悔やんでいます。
映像の持つ影響力も必要なことがあることでしょうから。


今はドキュメンタリーを見ると、それを映している人の考えや気持ちが気になります。
「何を事実として残そうとしているのだろう」と。


<ドキュメンタリーとは>


Wikipediaドキュメンタリーの歴史を読むと、黎明期にこんなことが書かれています。

ドキュメンタリーの歴史は映画と共にはじまった。リュミエール兄弟による歴史上最初の映画『向上の出口』(1985年)は、その名の通り工場の出口にカメラを設置して、従業員らが出てくる様子をワンショットで撮影しただけのものである。


それだけの映像でも、初めて自分の姿を映像として観た人たちの興奮はすごかったのでしょうね、きっと。



それから1世紀たつと、誰もが片手にビデオカメラを持って、運動会や結婚式、そして出産といった「ハレの日」の映像を気軽に残せるようになり、さらにわずか20年ほどでスマホで猫や犬を初めとした日常を動画として残し、さらに世界中に公開するシステムまでできたのですから、「ドキュメンタリー」と言う言葉が指すものも急激に変化しているのかもしれませんね。


「ドキュメンタリーの歴史」では、紀行ドキュメントから徐々に「教育効果、宣伝効果を利用して社会を変革する意図を持った映画製作が隆興」し、第一次世界大戦以降は「国家的なプロパガンダを目的」とした映像が作られ、第二次大戦以降は「新植民地主義、資本主義への異議を唱えるものに至るまで多様化」とあります。


一方で「観客の劣情に訴える娯楽としてのドキュメンタリー」として「世界各地の夜の風俗、退廃的・奇怪なイベント」「欧米以外のアジア(日本を含む)やアフリカの『野蛮な』風習を切り取ったもの」などがあげられています。
少数民族のノーズフラッグはその流れかもしれません。


フィクションとノンフィクションの境界は曖昧なものとなり、全体としてはドキュメンタリーは以前ほど「真実」と近しいものとしては受け入れられなくなりつつある。

映像を撮る人の主観がそこには必ずあるわけで、そこに「事実」をとらえようとするためには見る側の客観性が大事になってくるのでしょう。


いかに感情を一旦切り離し、いかに多様な視点からひとつの物ごとを掘り下げて行くことができるか、そのあたりなのかもしれませんね。





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