境界線のあれこれ 61 <老人と高齢者>

両親が病院や施設でお世話になるようになってから、80代から90代の方を身近に感じることが多くなったのですが、私が子どもの頃に見ていた「老人」よりはもっと年代が上なのに元気だし、見た目も若いなあと思います。


私が小学生になった頃、まだ母方の曾祖母が生きていた記憶があります。
農家の離れに住んでいて、曲がった背中でちょこんと座っている姿は小さなおばあさんでした。
今、思い返すとあの時にはまだ70代だったのですが、現代の感覚からすると90代ぐらいの印象として残っています。


着ているものも地味で、たまに動いて身の回りのことをする以外は、まるで銅像のように静かに座っていました。
それが私の「老人」のイメージになりました。


祖父母は70代で亡くなりましたが、曾祖母に比べるとまだ活動的だったイメージがあります。


その70代前半の年代で、両親の世代になると海外旅行やドライブ、趣味などに多忙でした。
外見上は背も縮み、歩き方もゆっくりになっていきましたが、元気でした。


そういえば以前は「矍鑠(かくしゃく)とした老人」という言葉を耳にすることがありましたが、最近はあまり使われないような気がします。
「元気な高齢者」というイメージと「矍鑠とした」は少し違うのかもしれませんね。



<「他者の年齢を決めるのは社会の目」>


前回の記事で紹介した「ご老人は謎だらけー老年行動学が解き明かす」という本のつづきです。
「他者の年齢を決めるのは社会の目」という箇所で以下のように書かれています。

 では、私たちはなぜ、主観年齢に沿った老人の行動を、年寄りの冷や水と感じるのでしょうか?主観年齢は自分だって若いのに、です。
 人は、自分の中にある主観年齢にとらわれていますが、同時に社会が求める年齢規範にもとらわれています。規範とは、判断や評価、行為などの拠るべき基準のことで、年齢規範とは、年齢に基づく判断や行動の基準をさします。つまり、「子どもは子どもらしく」「若者は若者らしく」「老人は老人らしく」といったことです。
 昔に比べれば社会的な年齢規範は薄れて、60歳を過ぎて冒険をしても、おかしいといわれない世の中になってはきました。けれども社会全体としてみれば、退職年齢は相変わらず60歳が主流ですし、「四十にして惑わず」のような、昔ながらの年齢規範が生きています。あなたも、人の行動を見て「今どきの子どもは、子どもらしくない」とか、「いい年をして大人げない」などと思うことがあるのではないでしょうか。個人は変わってきているのに、社会的な年齢規範は変わりにくいため、そこに生ずるズレが年寄りの冷や水になるのです。

曾祖母や祖父母の世代で70代まで生きたのは長寿の方だと思いますし、いつもちょこんと座って何もしなくても老人としての威厳もありました。


両親はその年代をとっくに越えたのですが、70代頃のことを思い返してもなんだか「老人」とは呼べない雰囲気を感じていました。
なぜなのだろうと思っていましたが、この本の中にちょっとヒントになることが書かれていました。

 私は、ずっと老年行動学を研究してきましたが、研究を続けるうちにハッと気づいたことがあります。「老人は自分を老人だとは思っていない」ということです。主観年齢が若いからですが、研究を始めたばかりのころは、自分が若かったこともあり、この点をしっかり理解できていませんでした。しかし、ここを理解しないと老年行動学の研究は進みません。


「老人は自分を老人だとは思っていない」
なるほど、両親の行動を見てもそう感じたことはたびたびですし、自分自身も「中高年になっても中高年だとは思っていない」とも言えそうです。


「年相応」から「アンチエイジング」へ


 主観年齢が若く、行動も服装も若いのが現代の老人ですが、さりとて自分の暦年齢を知らないわけではありません。体力が落ちたりして、「年をとったな」と思うこともあります。主観年齢と暦年齢のギャップを、ふとした拍子に実感するわけですが、このようなときに私たちがとる行動は、主観年齢を暦年齢に近づけることではありません。「年をとったな」と思って年相応に振る舞おうとするのではなく、「いや、まだ大丈夫だ」と思い直して、暦年齢を主観年齢に近づけようとするのです。すなわち、アンチエイジングです。


もしかしたら、自己実現とか自己啓発が延々と死ぬまで続くのが現代の高齢者なのかもしれません。


「老人」と「高齢者」は違う状況をさしているのかもしれないと思いました。




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