気持ちの問題 13 <自分の身に置きかえる>

先日来、なぜ「障害」に対してあんなことをいっちゃった人がいるのか考え続けています。


一番先に感じたことが、老いるというのは障害を負うことなのだという私自身の実感なので、70代の方がそれに気づいていない、というよりも目をそらしているように感じて冒頭でリンクした記事を書きました。



もしかしたら「みんな本音ではそう思っているでしょ」と発言したところ、発言撤回・謝罪まで追い込まれた事態になったことに、ご本人が一番驚いているかもしれません。
いえ、今日も本当に憶測だけの内容ですが、人の失敗に学ぶつもりで書いています。


「許し難い発言」と思った人も、そして私も、もし生まれた時代が違えば同じ事をしていたかもしれないので。


<強く健康であることが絶対条件である時代>


私の父は認知症になってからも、自分がいかに健康に気をつけてきたかと胸を張って話すことがあります。
そして「世の中には体の弱いやつや不摂生で体を壊すやつがいるからなあ」と。


父自身が認知症にくわえて脳梗塞で半身麻痺になった現在も、なお「自分がいかに健康に気をつけて来たか」が拠り所になっているようです。


「やつ」という表現に、父のそうした人たちへの優越感のようなものを感じるのですが、子どもの頃から私にとって父というのは、宗教的な知識とともに温厚で人格者のような存在であるとともに、時々、「お父さん、それはないよ」と感じるような発言に今でも時々とまどいます。


コンプレックスの裏返しとしての感情とも違う、この矛盾した気持ちはどこから来ているのだろうと。


ここ数年、代替療法の広がりやその歴史についていろいろと読んでいくうちに、大正末期生まれの父と同年代あるいは周辺の年代はどのような時代だったのか、少しずつイメージが深まってきました。


野口整体創始者「整体協会で扱った出産には片輪がいない。異常児がいない」という発言や、マクロビの安産志向の背景にある思想で紹介した「そんなペケ品やできそこないが生まれたら、ソレコソ苦労します」という発言も、実は少し父と重なって見えました。


野口整体の場合は「異常な児は『仙骨ショック』で淘汰」させるのに対し、マクロビの場合には「できそこないが生まれたのは仕方がないから、正食で赤ん坊を改造する」というものなので、多少方向性は違いますが、いずれにしても現在の私たちからすれば恐怖心を感じるほど、「障害」や異常に対しての冷たい視線です。


子どもの頃から平和を知らなかった世代にとっては、強く健康でなければ生き延びることもできない時代の空気が強かったのかもしれません。


71歳といえば終戦の前年の生まれですが、社会の気分のようなものが変わるには2世代ぐらいの時間が必要なのかもしれないと感じています。


<「障害」のイメージの変化>


1960年代前半、まだ幼児だった私の記憶に傷痍軍人の方々の姿があります。現在のような義肢も十分になく、リンク先のWikipediaを読んで初めて知ったのですが「カギ爪」というのですね、それを装着していた方を見た記憶もあります。


当時、交通事故による障害はまだ現在ほど多くはなく、私の記憶にあるのは戦争や労災で四肢や体の機能を失った方々でした。


1970年代の小学生から高校生ぐらいの時代には、私の周辺でこうした傷痍軍人という方を見かけることがなくなりました。
代わって、交通事故によって車いすの生活になった方や、ポリオによる小児まひや脳性麻痺で障害を負った方を「障害者」として当時は認識していました。


「知的障害」という言葉はまだなくて、身体的障害者と当時の「知恵おくれ」は一線が引かれていた印象です。


1970年代末に看護学生になった頃の小児科看護では重症心身障害児や自閉症についての授業はありませんでした。80年代末になると自閉症の子ども達のキャンプに付き添ったり、ダウン症の会に入会するなど、私自身も「障害」が身近な言葉になりました。


そして80年代以降、小児科学や救命救急、あるいは周産期医学と周産期ネットワークシステムが発達してたくさんの赤ちゃんやこどもたちを助けきた反面、障害を負ったまま生きなければいけない状況も増えてきました。


半世紀前、私が生まれた頃には助からなかったり、短い寿命だった子どもたちでした。


あの発言をされた方も、ご自身が子どもの頃や出産年齢だった頃にはあまり見聞きすることもないような状況で生きている子ども達と御家族の姿を、重度心身障害児施設で見たことで何か強い感情に突き動かされてしまったのかもしれません。


そういえば、以前も石原元都知事同じような発言をしたことがありました。


「全国重症心身障害児(者)を守る会」の「会のあゆみ」には以下のように書かれています。

 全国重症心身障害児(者)を守る会は、昭和39年6月に、児童福祉法からはずれ「世の中の役に立たず、社会復帰もできぬ子に金をかける必要があるのか」との声も聞かれる世相の中で「たとえどんなに重い障害があろうと、生命をもち、生きているのです。それなりに生き、育ち、伸びるこの子らを生かしてください」と訴え発足し、今日に至っているのです。


昭和39年(1964年)の平均寿命は現在より20歳も短いですし、当時の医療ではがん・脳血管障害・心疾患もこれといった治療方法はない時代でしたから、当時の人たちは自らが80代や90代まで障害とともに生きながらえる姿は想像できなかったことでしょう。


自分の身に置きかえて考えることが難しいことのひとつに、この障害という言葉があるのかもしれません。





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