観察する 3 <子どもを観察する>

平日の葛西臨海水族園でしたが、小さい子どもを連れた家族や、保育園の遠足など子どもたちがたくさんいました。


3歳ぐらいなのに、「フンボルトペンギン」の名前を知っていたり、子どもたちなりの視点で展示されている生き物を見ていろいろな感想が飛び出してくるのを、おもしろいなあと見ていました。


あのマグロの大水槽は家族連れに人気があるようです。
大きなマグロに声も出ないほど見入っていたり、はしゃいだり、子ども達の反応もさまざまでした。


そこで「ワー」「ワー」という声が聞こえ始めました。
最初は、「ワー、すごい」と言っているのだろうと思ったのですが、だんだんと声が大きくなっていきます。
2〜3歳ぐらいの子どものようだったので、興奮しながらも言葉で表現できないからかなと思っていました。


そのうちに叫ぶような「ワーイ」になって、初めて聞き取れました。
「怖ーい」と言っていたのです。


そちらを見るのもちょっと憚られたのですが、ご両親と上の子は一生懸命にマグロを見ていて、どうやら下の子が「ワーイ(怖いから早くここを出よう)」と言っているようです。


たしかにそうかもしれません。
水族園全体が展示されている生物のために薄暗くなっていますし、そこに大きな水槽があってマグロやサメが泳いでいる状況は、2〜3歳の子どもには恐怖心を覚えることもあるかもしれません。


「怖い!」という心からの叫び声も通じないようで、時々「シーッ」といいながらまだずっとマグロを見続けているご両親に、その子は「ムーイ(眠い)」と叫び始めました。


やれやれという感じで、その子をなだめながら次の展示へと移って行きました。
「ワーイ」も「ムーイ」もピタリと止まりました。


きっとあの子にとっては、あのマグロの水槽が本当に怖かったのではないかと思います。


<子どもについてわかっていないことに自覚的になる>


たとえば、自分が生まれて初めて呼吸をした時にどんなことを感じたのかという記憶は全くありません。
その後刻々と変化しながら周囲に何かを伝えながら成長して来たはずなのですが、そのほとんどの記憶がありません。


自分の感情が複雑になっていく過程の記憶がすっぽりと抜けているのが大人、とも言えるのかもしれません。


それが、日々新生児と接している私にとっての根源的な不安とでもいうのでしょうか。


冒頭のようなエピソードについては、「子どもはうるさくても当たり前」のような「子どもに不寛容な社会」「子育て中の人への批判」VS「マナー」の方向になりやすいものです。


でも、子どものことをわかっていると思い込んでいるのではないかと、少し引いてみればもう少し違う世界が見えるのではないかと思えるのです。


子どもの泣き声や叫び声というのはまだまだ観察もあまりされていない部分で、その本質は自分にとって危険なことを伝えることではないかと、日々啼き方が変化する新生児を見ていても思います。


その訴えをどう受け止めるのか。
状況はさまざまですし、子どもは日々成長変化するので答えは簡単ではありませんが、でも大人が客観的な観察を放棄しないこと、それがまず大事なのかもしれませんね。




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