世界はひろいな 31 <こんなあいさつもある>

前回の「おまえの村に水はあるのか?」というあいさつをする国があることに、地球の多様な暮らし方があることを感じますね。


日本だったら、「お元気ですか」「お変わりありませんか」とか健康を意識したあいさつや、暑い寒いといった気候のあいさつが多いかもしれません。
外国の方が日本語を学ぶ時には、どんなあいさつを、どんな状況で使うことをイメージして覚えて行くのでしょうか。


私が初めて東南アジアのある国に住んだ時に、びっくりしたあいさつが「さあ、食べましょう」といったニュアンスの言葉でした。


初対面に関わらず、人がいるところに行くとまずは「さあ、食べましょう」「もう何か食べた?」と聞かれるのです。


その人たちがちょうど食事やおやつを食べていると、「座って!一緒に食べましょう!」と分けてくれます。


もし私たちが職場で昼食や休憩中にあまり親しい関係でない人が来ても、日本ではまず自分が食べているものを「一緒に食べましょう」なんて言わないし、家で昼食中だとしても、なんだか食べていることを隠したくなる気分になりそうですね。


ところがその国では、通りを歩いているだけでしょっちゅうこういう声がかかるので、最初はびっくりしました。


もちろん、「こんにちは」「おはよう」「さようなら」「お元気ですか」といった、基本的なあいさつはテキストにも書かれているのですが、そういうことばは堅苦しくてあまり使われず、日常的にはこの「もう食べた?」「さあ、食べましょう」が多かった印象です。


日本語には本音と建前のような言葉がけっこうあるので、言葉通りに受け止めると、本当はそこは辞退すべきだったということにもなりかねません。
最初の頃はその言葉には裏があるのではないかと勘ぐってみたり、ヘタに断っては相手の気を損ねるのではないかなど、いろいろと悩みながら様子を見ていました。


でも、その国の人たちの言葉にはほとんど裏表がない印象を受けました。


こんな状況の村でも、村の中を歩いていると「一緒に食べよう」と何かでもてなしてくれようとしますし、あの水の少ない砂漠で他の人の水を心配してくれるあいさつに通じるようなものを感じました。


この国で暮らして、私は新約聖書のこの部分がそういう意味なのではないかと感じるようになりました。

4千人に食べものを与える


エスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきっててしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに小さい魚が少しばかり」と答えた。そこでイエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子どもを別にして、男が4千人であった。(マタイによる福音書15章)


7つのパンで男性だけで4千人、女性や子どもを入れたら1万人ぐらいになるのでしょうか、そんな大勢の空腹を満たして、なおかつ屑がそんなに出るわけが無い、と非現実的な「イエスの奇跡」に気を取られてしまうと意味が伝わらない話なのでしょう。


「もう食べた?」「一緒に食べよう」と、相手を気遣い分け合うあいさつがこの社会に根強くあるからこそ、この国の人の行動を支えているのかもしれないと思うことがたくさんありました。


時には一緒に食べさせてもらったり、こちらも分けながら、だんだんと私も状況が見えて、「ありがとう。今はお腹がいっぱい」とさらりと断れるようになりました。



世界にはいろいろなあいさつがあることでしょうね。




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