乳児用ミルクのあれこれ 26 <途上国の母親と先進国の母親>

「母乳育児支援スタンダード」(日本ラクテーションコンサルタント協会、医学書院、2009年)では、途上国で粉ミルクが広がった様子と理由が以下のように書かれています。

 1960年代のアフリカは独立したばかりの新興国家が多く、政府の機関は体制が貧弱なため、乳児栄養や健康問題に対応できる能力も余裕もなかった。缶入りの粉ミルクと哺乳びんは開発途上国の人々にとっては"近代化・西洋化の象徴"で憧れの的であり、これらの国々に対する多国籍人工乳メーカーの進出を阻むものは何もなかった。ラジオ放送などのマスメディアによる大量宣伝が行われ、医療機関を巻き込んだ巧みな販売戦略が功を奏し、開発途上国の人々は人工乳のほうが優れていると信じ、唯々諾々として母乳育児をやめた。

母乳育児と引き換えに人工乳を選択したのではなく、混合食の部分に粉ミルクを取り入れた可能性についてはこちらの記事で書いたとおりです。


あるいはこちらの記事に書いたように、少しでもいいから開発途上国を自分の足で歩き、実際の暮らしを見たことがあれば、多くの貧困層の人たちはこうした宣伝を鵜呑みにするほどの購買力さえないことはわかるはずです。


「納豆がさらさらな血液にする」とテレビで放送されると店頭から納豆がなくなってしまう状況を目にする社会に生きていれば、冒頭のようなことも起きると思えてしまうのは仕方がないことですが。


<1970年代のアメリカの母親>


さて、ネスレ・ボイコットが起きた1970年代のアメリカでは、どのような授乳方法が選択されていたのでしょうか?



孫引きの引用ですが、north-pole先生のブログ「百丁の森」のこちらの記事で、1997年にアメリカ小児科学会(AAP)から出された報告「アメリカにおける母乳育児への取り組み」の訳文が紹介されています。

1950〜70年に(混合栄養も含めた)母乳育児率が出生直後で30%未満、6生月で10%未満という状態でした。
粉ミルク会社が販売促進のため、産婦人科内で試供品を配布する習慣が浸透したこともあって、1970年代には母乳育児の比率が25%にまで落ち込みました。

出生直後に混合栄養も含めて30%未満の人しか母乳をあげていない、つまり7割の人が出産直後から断乳をしてミルクを選択していたことになります。


日本ではどうでしょうか?
1970年代の資料が見つからないのですが、厚労省の「授乳・離乳支援ガイド」p.5に、完全母児別室・ミルクを補足した規則授乳が主流だった1985年の統計が掲載されています。
それによると1ヶ月の時点で「母乳栄養49.5%」「混合栄養41.5%」と9割以上の方が母乳をあげています。


アメリカは、世界の中でも異例といえるほど粉ミルクを選択する率が高かった国といえるでしょう。


<母親は宣伝に影響されたのか?>


さてアメリカの女性たちは、「粉ミルク会社が販売促進のため、産婦人科内で試供品を配布する習慣が浸透した」影響のために、7割もの母親が出産直後から断乳を選択したのでしょうか?


それについての調査や研究があるのかどうかはわかりませんが、アメリカという女性の社会進出の先駆的な国のイメージと、宣伝に煽られて母乳を止めさせられたかのようなイメージはどうしてもつながりません。


ではどうして途上国の母親は、メーカーの宣伝に踊らされたかのようなイメージを世の中は受け入れてしまうのでしょうか?


「フード・ポリティックス 肥満社会と食品産業」(マリオン・ネスレ新曜社、2005年)の中では以下のように書かれた部分があります。

粉ミルク会社は産院などと手を組んで無料のサンプルを配り、「ミルク看護婦」に白衣を着せ、粉ミルクの促進や販売をしたミルク看護婦に歩合制で報酬を支払い、母親に粉ミルクを使うよう助言することを医療の専門家に納得させ、口頭での説明や掲示物や絵本を使って文字の読めない女性たちに売り込んでいると批判した。

そう、おそらく途上国の母親は文字が読めず宣伝に踊らされたという「思い込み」のイメージが強いのではないかと思います。


それについて、ダナ・ラファエル氏の「母親の英知 母乳哺育の人類学」(医学書院、1991年)では、こんなエピソードが書かれています。

私は、ジャマイカの若い母親と話した時のことを忘れることができません。赤ちゃんのミルクを作るのにどれだけのお湯をさしたか、私が彼女に尋ねていた時のことです。私は赤ちゃんが十分の栄養をとっていないのは、母親のミルクの量り方がいいかげんだからだと思っていました。彼女は私の言外の非難を敏感に感じとって鋭く切り返して来ました。「私は、文字は読めないけれど、めくらではないわ。」
ラベルの文字は読めなくてもミルクの作り方ぐらい彼女はちゃんと知っていました。貧しすぎて、処方どおりにミルクを作れなかっただけなのです。

ラファエル氏のように自分が住む側のもつ傲慢さに気づいた感じ方がもう少しあれば、母乳推進運動ももっと違った形になっていたのではないかと思います。


アメリカにはアメリカの社会の変化があり、途上国にはまたそれぞれの地域の社会の変化があり、そしてまた日本も同じ。
その中で母親たちは自分にできることを考え行動してきたのです。


あるいは周産期関係者もまた社会の変化に試行錯誤してきました。



すべてが粉ミルクの販売促進に原因と責任を押し付けるやり方では、本当に必要な支援は見えてこないとつくづく思うこの頃です。




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