記憶についてのあれこれ 95  <記憶があって成長する>

毎日のように見ている新生児ですが、あの生まれて数日ぐらいまでの赤ちゃんでさえ、何かを記憶していることを感じます。


たとえば沐浴も、日一日とその経験を記憶して慣れていく様子がわかります。
退院間近の赤ちゃんなら、裸にされてもお湯に入れてももう啼かずに待っている感じです。
体重計に載せられるのは嫌そうですけれど。


そうやってたくさんの経験を記憶しながら、次々と複雑な行動を体得していくことは不思議ですし、畏敬の念しかありません。


新生児を毎日見ていると、妊婦健診や面会で来る1歳や2歳の子どもたちの行動が、すごく複雑な行動であることに、またまた驚いてしまいます。
まるで精巧なロボットを見ているかのようです。


哺乳瓶で飲んでいた赤ちゃんたちが、ストローやマグ、さらにコップから飲めるようになるまでの変化もあらためてすごいと思います。
そこには体験を記憶し、こぼしたり上手く飲めないという失敗経験も記憶しながら、できるようになるためのプログラムのようなものがあるのですから。


こうした新生児から小児、そして青年期に至るまでの心身の成長変化というのは目覚ましいものだと思います。
私のように中年になると、もうその機能が衰えて失われて行くばかりなのかなとちょっと寂しくもあります。


認知症の父も新たに記憶し、新たな行動を獲得している>



さらに父のように認知症で、記憶を失っていく場合には、もうあらたな成長はなくて失っていくばかりなのだろうと思っていました。


ところが、面会のたびにその認識が間違っていたのかもしれないと思うようになりました。


認知症の方のリハビリもそうですが、決して忘れたり失っていくだけではなく、新たな行動を体験し記憶して獲得していることがわかりました。


あるいは、覚えていてくれていないのかと思っていたらどこかで私を認識してくれて新たな人間関係を築いていることもあるのだと。


また、父と一緒にコーヒーを飲み、お菓子を食べる時に気づいたことがあります。


最初の頃は、コーヒーカップのほうが雰囲気もあってよいかと思ったのですが、取っ手を持つ力が弱くこぼしたり、カップに口をつけてすするという動作もうまくいかない様子でした。


次は、雰囲気よりも飲みやすさを重視して軽いプラスチックのコップにしてみたのですが、口元に正確にカップを近づけることも難しそうでした。


あの乳児期に身につけた「コップから飲む」行動を、父は失っていく段階に入ったと思っていました。


いろいろと試してみて、アルミ製のボトルに入ったコーヒーにストローをさして飲む方法が一番飲みやすそうです。


それでも最初の頃は、ストローで吸い上げすぎてむせたり、あるいはボトルの底に残っているコーヒーをどうやって飲んだらよいのか思いつかないようで、私がボトルを傾けて介助していました。


そのうちに、父が自分でボトルを傾けて最後までコーヒーを飲みきるようになったのです。
あ、すごい。父は新たな行動を獲得したと思いました。
認知症だからといって失うばかりではないのだと。


ここ1ヶ月ほどの面会は、動く左手にミトンがつけられていましたから、父自身でコーヒーのボトルを持つことができませんでした。
そこで、私がボトルを持って、飲めるように介助していました。


ところが、父は私がボトルを近づけると必ず、「あなたも飲みなさい」と言うのです。
あなたの分もあるかといういつもの父の気配りとはちょっと違うニュアンスを感じました。


「あ、そうか。父は全介助されてコーヒーを飲むのが嫌なのかもしれない」と。
でもミトンをした左手とほとんど動かない右手では、介助するしかありません。


どうしたら父の気持ちに応えられるかなと考えていたところ、次の面会では父の右の指が少し動いたのでした。
ミトンをしている左手にボトルを載せて、わずかに動く右手の親指と人差し指でCの字にしてボトルの口をつまんで、父はひとりでコーヒーを飲んだのでした。






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