事実とは何か 7 <鳥瞰(ちょうかん)と虫瞰、俯瞰と仰瞰>

4月14日の夜8時過ぎ、東京でドスンと地震を感じました。
ガタガタという揺れではなく、ドスンと縦に揺さぶられる感じで、わずかの揺れの割には何か気になってテレビをつけました。
三鷹震源とする震度2程度の地震だったのですが、そのままなんとなくテレビをつけっぱなしにしていたら、9時半ごろから熊本の地震速報に切り替わりました。


暗闇に映る熊本市内の揺れ方は大きかったのですが、停電もしていない様子でしたから、すぐに落ち着くかと思いましたが、その後も震度5や震度6の速報が続きました。


被害は大きくなるのかもしれないと胸騒ぎがしながら、東日本大震災と原発事故発生時の記憶が思い出されました。
そして翌朝まで、あの時と同じようにNHKの放送を追っていました。


朝方5時台の薄明るくなる頃には、かなりの被害があちこちででていることなど、全貌が少しずつ見えてきました。


そして、その時点では映像も集まり、地震直後からの状況が繰り返し放送されました。
半倒壊していた家が崩れ落ちる映像や、生き埋めになっている現場での捜索活動や避難所に集まった人たちの様子など、遠く離れていてもあの東日本大震災の時の緊張が蘇ってくる状況でした。


こんな時こそ、心を落ち着けなければと思いました。
今回の場合は、離れているからこそ心を落ち着けてニュースを取捨選択するという意味です。


<被害規模と全容を把握する>


大災害が起きるたニュースを聞くと、その地域がどれくらいの広さなのかという感覚が日常のそれとはずれてしまうことをこれまでも感じていました。


阪神淡路大震災のニュースも記憶に鮮明にあるのですが、日常の感覚、自分が外出する感覚からいえばとても広い範囲の被害です。
東日本大震災になると、何県にもまたがる広さですし、どこかひとつの市町村が壊滅的な被害をうけているわけですから、最初は「もうこれで日本はおしまいだ」という絶望感さえ感じました。


そのうちに、ある場所では壊滅的な被害でもそのすぐ隣りの地域では軽度の被害ですんでいたり、その地域のどれくらいの割合が実際に被害を受けたのかなど、災害の全容が少しずつわかってきます。


最初のニュースで受けた衝撃が、地理的な感覚をおかしくしてしまったのだろうと思うことが災害時に私にはしばしばあります。


<鳥瞰と俯瞰>


この感覚のずれに気づけるようになった理由のひとつには、あのグーグルマップの登場があるかもしれないと思っています。
その「場所」からグーンとズームを伸ばしていくと、もっと広い視野が見えてくる。
そんな感じです。


鳥瞰図という言葉を知ったのは中学生頃だったと思いますが、「全体を知ること」の大切さは空を飛んでいる鳥の視点や視界のようなイメージとして、ことあるごとにこの言葉を思い出します。


ところがわずか十数年ぐらい前までは、この鳥瞰図は想像するしかありませんでした。
もちろん航空写真などはありましたが、まるでズームレンズを使って自由自在にある1点を見つめるということにおいては、ただただ地図を眺めて想像するしか手段がなかったのですね。


大きな災害時には、悲惨な映像や日頃の感覚からは想像ができない数字がニュースとして飛び交います。
たとえば「何千戸が半壊」「何万世帯が避難」「十万戸が停電、断水」などと聞くと、想像を越えた状況に感じて「世も末」という気持ちが先にたってしまいそうです。


そんな時に、その地域のどれくらいの範囲なのかとできるだけ鳥の目になってみた情報があると、落ち着いてニュースを判断できるのかもしれません。


もちろん被害に遭われた方の仰瞰という視点から目をそらしてもいけないのですが、でも「居ても立っても居られない」という感情は災害直後にはできるだけ抑えて、心を落ち着けることが大事。


災害時に良かれと思って広げた情報イデオロギーの思わぬ落とし穴があることもありますからね。





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