2000年代にtwitterが少しずつ広がり出したときには、まだ関心はありませんでした。
2011年の東日本大震災を機に災害時に情報を得るにはtwitterがとても役に立つこともあるとわかり、私も始めてみようかなと思いつつ、アカウントを作らなくても閲覧はできるのでそのままにしていました。
公園のつぶやきのように植物の生活史を知ったり、競泳に関してニュースの影に隠れてしまう大事な情報を知るために読ませてもらったり、ふだんはまあ平和的に使わせてもらっていました。
どちらかというと自分の信じていることを広く伝えたいという独善的というか、きっと後で赤面することになりそうな情報が拡散されてて賛同を得ていく現象に警戒感がありました。
災害時になると、独特の不安からくる高揚感が情報をさらに錯綜させている印象です。
それでも災害の中での生活の実態を伝えてくださる貴重な「つぶやき」もたくさんありました。
でもそういう大事なつぶやきや真っ当な意見というのは案外バズらないので、twitterでの情報というのは何かが欠けているのではないかと感じていました。
しだいに動画などの技術が格段に進むと、災害時にはtwitterの動画やつぶやきの方が報道機関より早く「現場」を映し出すようになり、その速さと情報量に圧倒されるようになりました。
さらに災害時というのに偽情報を出す人も現れる、世も末の状態ですね。
あるいは政府がわざと社会の反応を見るために出す情報なのかどうなのかを確かめる世の中にまでなり、ついつい何かがあるとtwitterでの情報や反応を見てしまっていました。
*twitterがない平和な時間を取り戻した*
昨年6月以降、とうとうアカウントを作らなければtwitterを見ることができない状況になり、次の災害の時にどうやって情報を得ようかと不安はありました。
災害だけでなく一昨年来、政治の揺らぎの中で何が起きているのかの情報も必要です。
それまであまり利用したことのないネットニュースのまとめサイトを見るようになりました。
時系列で報道各社のニュースが流れてくるだけでなく、関連した過去のニュースも見ることができるので便利ですね。各社の記事のニュアンスを比較検討できるし、すっかり忘れていた過去の記録を読むことができます。
コメント欄も、実生活の感覚とつじつまがあう意見があります。
140字といった短い文字数だとうまく言ったものがちだったり、その発言者は誰なのか有名だからとか、何かの分野の権威者だから信じてしまうというバイアスが出てきそうですが、コメント欄は誰が書いているかとかではなく何を書いているかという点をじっくりと読み解くことができますね。
あるいは周囲の人に「しゃべってすっきりした」ぐらいの感情を全世界に向けて書き込むことで、社会が求めていたわけでもない思わぬ大きな動きを作ってしまう危険性も、こうしたコメント欄にはなさそうです。
むしろ短い言葉で書き込まれた内容は、どこか浮いてしまっていますからね。
twitterを読まなくなって半年、なんだか平和な時間を戻りました。
「twitter(X)で話題になっている、炎上している」らしいことも、コップの中の嵐で私の生活には関係がなくなりました。
*災害時の公的な情報をどうやって得るか*
ただし、災害や大きな事故が発生すると日頃は想像もしたことがない悲惨な状況がつぎつぎとニュースになりかなり動揺するので、そういう時には今どこまで状況が把握されていてどのような復旧作業や対応が行われているのかを国土交通省のtwitterや厚生労働省のtwitterなどを参考にしていました。
今年の1月1日に発生した能登半島地震の状況は、情報源がテレビとネットニュースだけになり災害時の短期・中期・長期の国や自治体の対応や見通しを直接知る手掛かりが少なくなってしまいました。
twitterのように私企業で経営者の意向が変わればたちまち閉鎖的になるようなものに依存しない、緊急時の官公庁や自治体の公的な情報を流すシステムができると良いですね。
災害時もそうですし、熊のニュースも。
*おまけ*
能登半島地震のニュースをその直後から見ていましたが、報道機関より早く現場を映す動画が出始めるのにいつもに比べてだいぶ時間がかかった印象でした。
数日経ってもまだ電気や通信インフラが復旧していないことと、やはりもともと地方に行けば行くほどGPSがずれたり、圏外になったり、メモがごっそり消えてしまったりいろいろありますから、そのあたりが関係しているのでしょうか。
情報伝達のためのデジタルも万能ではないのでしょうね。
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