気持ちの問題 22 <「孤独死」とは>

毎日チェックしている医療関係ニュースの中では、やはり訴訟についての記事に一番先に目がいきます。


「こんなことが起こるのか」というリスクマネージメントの視点での情報を得ることと、「明日は我が身」という気持ちが入り乱れながら読んでいます。



先日、今までの記憶ではこういう「争点」はなかったのではないかと思う記事がありました。


損賠提訴、入院中窒息で安中の男性「孤独死」 遺族が医療法人を /群馬
2016年6月3日(金)配信 毎日新聞社


 高崎市内の病院に入院中、病院の過失で吐いた物がのどに詰まり窒息死したとして、安中市の男性(同時73歳)の遺族が、病院を経営する医療法人を相手取り、5313万円の損害賠償を求める民事訴訟前橋地裁高崎支部に起こした。4月25日付。



 訴状によると、男性は入院中の2015年12月16日朝、死亡が確認された。直腸閉塞(へいそく)や投薬の影響で嘔吐(おうと)を繰り返していたが、病院は適切な処置をしなかった上に経過観察を果たさず、病院内にもかかわらず窒息状態に陥った際に誰にも発見されずに「孤独死」した、としている。


 毎日新聞の取材に対し、医療法人の担当者は「コメントは差し控えます」と話している。


 男性の死亡を巡っては、15年10月にスタートした医療事故調査制度に基づき、医療事故として病院から医療事故調査・支援センターに報告されている。


 同制度は、診療行為中に患者が予期せず死亡した場合、医療機関に同センターへの報告と事故調査を義務づけた。院内調査を原則としているが、医療機関または遺族から以来があれば同センターが調査を実施することになっている。

裁判の流れや、この医療事故調査制度と民事裁判の関係も不勉強でよくわからないのですが、冒頭の「病院の過失で吐いた物がのどに詰まり窒息死した」としての提訴なら理解できます。


この方にとって「適切な処置」とはどのようなことなのか、状況を分析して再発防止になることも見えてくることでしょう。



ところが「病院内にもかかわらず窒息状態に陥った際に誰にも発見されずに『孤独死』した」の「孤独死」という言葉の使い方にとまどった記事でした。
ご遺族から「孤独死させた」と思われるような病院でのケアというのは、どういうことなのだろうと。


今の日本の病院では一般的に、状態の悪い方や、ご臨終に近い方は心電図計などのモニターをつけているので、急変してもすぐにわかることがほとんどではないかと思います。


でもモニターをつける程でもない状態で、まさかと思うタイミングで急変し、そのまま亡くなることを私も何回が経験しました。


決められた間隔の巡視の合間に、なんだか気になって訪室してみたらすでに亡くなっていた方もいらっしゃいます。
あるいは、寝たきりの方の体の向きを変えた途端に突然亡くなったこともあります。


御家族ももちろん間に合いませんし、巡視の合間に亡くなった方は「孤独死」と言われればそういうことになります。


病院の中だからといって、いつも誰かがそばにいて自分の死ぬ瞬間を見守ってくれるわけではない。
たぶん、医療従事者側にとっては当たり前のことが、ご遺族の気持ちにとはこれだけ受け止め方に差があるのかと、ちょっと不意打ちをくらった記事でした。


それとも、病院内での「孤独死」という表現にしなければならないほど、説明や話し合いの段階で感情がこじれてしまったのでしょうか。


この言葉がどんな気持ちから生じたのか、そしてその後、どのような感情になるのか。
提訴したというニュースで終わらずに、是非、その後のこの病院内での孤独死という言葉の行方を報道していただければと思います。




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