気持ちの問題 24 <正義感のゆくえ>

「善意と正義感」という言葉を聞いたのはニセ科学の議論の中で、まさに自分の生き方だったと赤面したのでした。


その後もつらつらとこの表現を考え続けているのですが、決して「善意と正義感」が悪いわけでもなく、そこには何層もの、あるいは何種類もの「善意と正義感」の多様性があるのだろうと思います。


それこそ「白か黒か」ではない、善意や正義感が。


今でも「正義の人」と思い出す人たちがいます。


一時期住んでいた東南アジアの国で、当時の独裁政権下で命をかけて自由を得ようとしていた人たちや、その人たちを支えたコロンバン神父会の神父さんのような人たち、そして外国人がなかなか調査に入れない地域で研究を続けた村井吉敬さんのような人たちです。


「正義」とは何か、まだ私自身が十分に理解できていないのですが。


<「正義感」と「不正義に対する怒り」>



さて、私が最も影響を受けたのが犬養道子氏の本であったことは、ブログのあちこちに書きました。
たとえば、「日記ーモノローグにならないように」旧約聖書との出会い、あるいは知識として知っていることと理解していることの違いとか、数学についてなどです。


あるいは、私が海外医療救援活動に関心を持ったのも、難民とボランティアについて犬養さんの考え方に触れたことがきっかけでした。


ブログにそんな回想を書いているうちに、もう一度犬養道子さんの本を読みたくなり、少しずつ手に入れています。


30年以上たって読み返して、本当に出会って良かったと思うのですが、当時はあまり見えなかった犬養さんの文章の中の感情が見えて戸惑う部分もあります。
当時の犬養さんと同じ年代になった今読むと、「けっこう、怒りという感情で書かれた部分がある」ことが見えるのです。


「不正義に対する怒り」とでもいうのでしょうか。


それはたしかに「そうだ!」と読む人の気持ちを魅きつけるかもしれませんが、今読むと、理想と現実をどうとらえるかというあたりではないかと思えるのです。


90年代以降、医療の現場がこの「理想と現実」と葛藤して来ました。
たとえば「良いお産のために今の病院でのお産はここが足りない」といったお産の快適性への批判は、たしかに社会では受け入れられやすいとは思いますが、今思い返すと不正義への怒りに似ているなと思います。


言い替えれば、「思い通りにならない現実への不満」とか「自分の価値観とは違うことへの反発」でしょうか。



<「正義感」も変化する>



私が読んだ犬養道子さんの本は、1980年代までに書かれたものが多かったので、90年代以降の本も読んでみようと集めています。


2001年に出版された「未来からの過去」(岩波出版)が手に入ったのですが、その第一章に「犬養さんはこの本をそう解釈したのか」と驚いた部分がありました。


この男を見ていたら、何とも唐突に、二十世紀半ばすぎからのち、アグリビジネスと名づけられて地球規模での「食」の生産・投資メカニズムをくりひろげた怪物が、中世浮き彫りの上に重なって見えて来たから妙である。具体的な一例をあげるなら、だいぶ以前に鶴見良行さんの書かれた『バナナと日本人』(岩波新書)。

「この男」とは、フランスのカテドラルに描かれた絵の中で、「後生大事に首から紐で吊り下げて抱え込んでいる金貨銀貨の一杯詰まった袋の重みのせい」で動けずにうずくまっている男のことです。


たしかに、1980年代初めに鶴見良行さんたちがバナナ研究を始めた頃には、こうしたアグリビジネスへの批判があったことはこちらの記事で紹介しました。

バナナという熱帯植物について、最大の問題は、農園労働者と小地主のあまりにもむごたらしい搾取のされ方であり、輸出市場を四大企業が握っていることだ。

最初は、鶴見良行さんたちもアグリビジネスという「怪物」に立ち向かっていたのかもしれません。


でも、その後、東南アジアを歩き続けて、90年代には中央から見た歴史史観に引きずられることへ批判しています。



実際に歩いて、話を聞いて、さまざまな状況があることをまずは知ることが大事であり、あまり理論化を急がない方がよいというところまで、鶴見良行さんの「正義感」は変化したと言えるのかもしれません。



アグリビジネスが怪物に見えた人たちがネスレボイコットを支援し、完全母乳が正義であると広がってしまった時代を見てきたので、犬養道子さんの本のこの箇所がとても残念だなあと思いました。


犬養道子さんはの本は今も好きだけれど、正義感はやはりやっかいという読後感も増えたこのごろです。





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