記憶についてのあれこれ 103 <今年もまた夏(休み)に本を読もう>

8月も半ばを過ぎると、「あーーー夏休みが終わっちゃう」というあの子どもの頃の焦りのような寂しいような気持ちを時々思い出してしまいますね。


昨年に引き続き、今年も本を読むことを自分に課すことをしました。


なんといってもめっきり本を読まなくなった私です。
数年ぐらい前までは、一週間に数冊以上読んでいたのですけれど。


いつごろから本が好きだったのかなと思い返してみると、小学生の頃は学校の図書室にある本を読破する勢いで借りていた記憶があります。
何を読んだのかはもうほとんど思い出せないのですが、童話や偉人伝、地理とか地震の話とか、当時はノンフィクションもフィクションも何でも来いという感じでした。


一瞬でその世界に入り込み、その人物の気持ちになったつもりで、どこまでもどこまでも世界が広がっていく楽しさがありました。


中学生・高校生になると、本から距離をおいた時期があったように記憶しています。
中学校・高校の図書館は、小学校よりも小さく感じるほど魅力がない場所になりました。
住んでいた地域には自治体の図書館もなかったか、あったとしても遠くて行けなかったのか、図書館に行った記憶もありません。


街の本屋さんへは学校帰りに時々よりましたが、1970年代当時はまだ出版物も少なかったし、新聞の広告で宣伝される大手の出版物ぐらいしかなかったのかもしれません。
また、高校生ぐらいでも本は買うには高価なものでしたから、買うのは参考書と漫画ぐらいでした。


高校生だと夏の課題図書に岩波新書の本が何冊か指定されていて、あの赤や青の表紙の難しそうなタイトルの本を手に取るだけで、ちょっと大人になった気分でした。
内容は難しすぎて、背伸びをして読もうとしても全然頭に入ってきませんでしたが。


高校を卒業して都内に住むようになって、紀伊国屋書店のような大型書店が買物にいくついでに立ち寄れるようになり、読書熱が再び始まったのでした。


1980年代には次々と文庫本が出版されて、購入しやすい価格になりました。
犬養道子さん伊丹十三さんの本に出会ったのもこの頃でした。


そして現実に自分の世界がどんどんと広がる中で、もっと世界のことを知りたいと図書館通いが始まったのが1980年代終わりの頃でした。


都内の公立図書館や専門書だけがある図書館、時には防衛庁(当時)の資料室にも出かけました。
そして本もたくさん買うようになりました。
1冊数千円ぐらいの本でも、知りたいことが書かれている本には惜しみなく払うことができるようになりました。



高校生の頃には読んでもチンプンカンプンだった岩波新書も、身近な本になりました。


ああ、私はこのまま一生活字中毒で図書館通い、書店通いの日々で幸せに過ごすのだろうと思っていたのですが。


なぜか、この数年で急に読書欲がなくなってしまいました。
月に1〜2回は大型書店へは足を運ぶのですが、以前のように「また本との出会いがあるかな」というトキメキも少なくなってしまいました。


その理由を行きつ戻りつ考えているのですが、著者の未熟さも見えてしまうようになったことも一因かもしれません。


それはそれで自分自身の成長でもあるのかもしれませんが、これから読みたい本が少なくなってしまうことにもなるわけで寂しい感じもしますし、もしかしたら私の柔軟性もどんどんと失われてしまうかもしれません。
これからは、自分の考えや気持ちとは相容れななさそうな本にあえて挑戦していくことで、新たな読書スタイルが広がるかもしれません。



ということで、1冊の本を選びました。
続きます。




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