記録のあれこれ 3 <私の分娩記録ノート>

「数は数えなくても記録は残せ」の中でも書きましたが、分娩介助100例を過ぎたあたりから分娩記録ノートをつけ始めました。


押し入れの中からその十数冊を引っ張り出して来て、初めから少しずつ読み始めました。


まず、やはり人間の記憶というのはあいまいだと実感。
分娩記録ノートをつけ始めた時から、分娩経過を写し書きしていたと思っていたのですが、よくよく見直してみると、最初の180例ぐらいまではあの助産師のクリニカルラダーの記録のように、産婦氏名、年齢、分娩回数、分娩日時、分娩方法、児の性別と体重、アプガールスコアなどを1行に記録しただけのものでした。



そのうち、余白部分にその分娩で気になったことなどを書き始め、1行では足りなくなって、それぞれの分娩についての記録と反省のようなことを書き始めたのが、分娩介助経験が300例になる頃でした。


ただ、平行してその1行でまとめたノートは検索用と集計用として続け、別に分娩介助ノートを作り、そしてさらに合併症や産科救急として対応したケース用に「症例ノート」までありました。
いやあ、我ながら頑張っていたなあと、ちょっとびっくり。


<物ごとが見えてくる段階がある>


私自身の助産師としての「成長段階」を振り返ると、分娩介助件数200例ぐらいで自分の判断や行動を客観的にみることが出来始めたのかもしれません。


それまでは、何時に入院し、何時にどれくらいの陣痛があって子宮口はどれくらいだっか、胎児心拍はどうだったか、どんな処置をしたかといった状況を観察して記録するぐらいで一杯一杯のところがあったのではないかと思います。


余白に書くことが増えて、それぞれの分娩経過を残そうと思いついたあたりから、経産婦さんと初産婦さんの違いとか、ご本人が何を言ったとかどんな表情だったといった記録も増えています。
そしてそれに対して、私がどう判断したか、それは本当にそういう判断で良かったのかといった逡巡まで書き残すようになっていました。
それが分娩介助経験300例あたりです。


今読み返すと、まだまだ当時は「手を出さないお産」にこだわっていたことがわかる記述があちこちに残されていました。
そして、いかに会陰切開をしないで、いかに会陰裂傷を予防するかにものすごく力を入れていたことがわかります。
産婦さんが「切って欲しい」といったのに、会陰切開を入れないでお産にできたことのほうを自分で評価していたり。


タイムマシンに乗って、その頃の自分に「こだわっちゃあいけないよ。お産を甘く見たらダメだよ」と言いたくなるくらい、読むのも恥ずかしくなる部分があります。


でも、やはり分娩監視装置のデーターから慎重に介助しなければいけないという反省はあちこちに書かれていて、やはりいろいろと怖い経験を経て、変化し始めていたのだと思います。


<個人的体験を分母にすると、人間の行動のパターンも少し見えてくる>


もし助産師が全員、こうした分娩介助ノートを残して、それを収集して分析したら、「これくらいの経験量の助産師の判断の傾向」とか「これくらいの経験量でおかしやすい間違い」が見えるのではないかと思うことがあります。


頭の中が真っ白になりながら緊張して分娩介助をする段階から、少し記録を残せるようになる段階、そこから自分の介助方法に過剰なほどの自信を持ちやすい段階、怖い経験をしてその過剰な自信を見直すことが出来る段階、そのあたりが客観的に示せるのではないかと。



それをしてこなかったから、「100例でアドバンス助産師」とか「自律した助産師」といったプロパガンダに誰も反対の意を表明することもなく流されてしまう業界になってしまったのだろうなと思います。


やはり客観的に記録を残す訓練と、それを振り返る作業は大事だと思いますね。




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