つじつまのあれこれ 9 <専門性とは何か>

昨日の記事で紹介した「植物をたくみに操る虫たち 虫こぶ形成昆虫の魅力」(徳田誠著、東海大学出版部、2016年11月)を、ぼちぼちと読んでいます。


「観察する」まとめで紹介した「湿地帯中毒 身近な魚の自然史研究」(中島淳著、東海大学出版部、2015年10月)と同じく、今まで全く関心もなくて知らなかった分野なのに、著者がどうしてその研究を始めたか、何に魅き込まれてずっと観察をし続けているのかという話が導入になっているので、ところどころ難しい専門用語が出てきても挫折せずに読むことができます。


これをいきなり、生物の教科書を買って読んだらもう1ページ目あたりで撃沈していただろうと思います。


「マンボウの素顔」「ノブドウ(野葡萄)」の説明文のように、一般の人向けに書かれたわかりやすく簡略な説明でも、そのひとつひとつの言葉の定義まで掘り下げてみようとすると、そこにはまた何十冊もの専門書が必要になりそうです。


<専門用語を本当に理解できているか>


最近はめっきり本を読まなくなり、このまま読書とは無縁になっていくのかとちょっと寂しく感じていました。


その理由には、著者の考え方の未熟さが先にみえてしまうようになったこともあるのですが、よく考えれば、私自身がそういう「正義感にあふれた何かを伝える本」を好んでいたことが一因だったわけです。
その時には、「すごい。こんなに先見の明があることが書けるなんて」と感動していたのですが、時を経てみると、なんだか現実と理想の間でつじつまがあわないのですね。


たとえば、「自然なお産」を求める運動は「医療介入の多い病院での分娩」に対する批判が土台にあります。
文化人類学者とか民俗学者とか世界各国で書かれたそうした批判を読むと、「医療介入」の部分での専門用語の使い方が臨床の私たちとはずれているところが気になることがところどころありました。


周産期医療の専門外の方たちが、これだけの内容を書くのには相当大変だっただろうとは思うのですが、やはり、批判のためには現実を多少無視してでも主張するニュアンスが見えてしまったのでした。


30年ほどの変化をみると、そのわずかの専門用語の理解の差が、出産の安全性と快適性におおきなひずみをつくることになったように思えてなりません。



<専門用語は気が遠くなるような観察によって生まれる>



たとえば昨日の「ノブドウ(野葡萄)」の説明文ですが、「茎」や「葉」は当然、誰もが知っている言葉です。茎を指して「葉」ということがないように。
ところが、「茎」とは何かとなると、またそこには厳密な定義があるはずですし、リンク先のWikipediaに書かれていることでさえ、まだまだ序の口の知識なのでしょう。


あるいは「冬芽」とは何か。
どうやってその存在を見つけて、定義されたのか。


長い長い観察の積み重ねを思うと、その知識になるまでの歴史に面白さを感じるのです。



そして地道な観察や研究を担っている人たちが、拙速に答えをつくり出そうとすると、おそらく10年後、20年後にはつじつまのあわないことが社会に返って来てしまうのではないかと。
周産期看護を見て漠然と感じる不安の答えが、冒頭で紹介した本などの行間にあるような気がしています。






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