事実とは何か 92 文学的表現だけでは足りないが、それが必要なこともある

「霞堤は誤解されている」を読み初めて、定義されていない言葉であるとともにもともとは私がイメージしていた盆地などの平野部分の遊水池的なものではなく急勾配河川で使われていた言葉だったことを知りました。

 

人命や財産に直結することなのに、なんとあやふやな使われ方だったのかとちょっと驚いています。

そのあたりが、30年ほど前からの周産期医療での挑ませる雰囲気の広がりを思い出させました。

出産を「分娩」と表現することと、「お産」と表現することではこんなにも違う世界になってしまうのかというような感じでした。

 

1970年代後半から、林業の専門用語や社会的な問題が表現されなくなった全国植樹祭のテーマのことも思い出しました。

 

世の中が驚異的に変化して専門分化していく中で、反比例するかのように自分の存在が大きくなっていくというアンバランスな時代だったので、「感情移入という自分中心の手法」に引き付けられて社会を動かすことに誰もが参加しやすくなった時代とでもいうのでしょうか。

 

 

*同じことも違う視点で書かれたものを読み比べる*

 

昭和52年の弘前の洪水の記録を検索していて、3つの資料から引用しましたが、同じ洪水についても視点が違うことが面白いなあと思いながら読みました。

 

弘前市弘前図書館の「相次ぐ水害と商店街」は、「第六章現代の弘前」の中の「安定成長下での商店街の変化」の中に掲載されていたもので、そのためか被害総額に焦点があるかのようです。

 

それに対して国土交通省の資料では、その時の気象状況はどうだったか、各地の降雨量、各河川の状況や被害が書かれています。

 

3つの資料の中で一番「文学的な表現」だったのが、青森河川国道事務所の「洪水の被害に泣いた」でした。

おそらく、一番読みやすい文章で、状況を理解できそうな文章です。

 

あるいはブログ内で何度か引用している「水土の礎」も、あえてその手法を使っているのかなと思われます。

 

では文学的な表現が不正確かというとそんなこともなくて、歴史を簡潔に理解できる文章だと思います。

初めて関心を持った人にはわかりやすく、そして関心が広がっていきますね。

 

つまりは「文学的表現」で関心を持ったあと、読み手がその行間にあることをきちんと読み取れずに、自分の信念をそこに重ねてしまうと後戻りできないくらい頑なな気持ちに変化してしまうことが問題なのかも知れません。

還暦を過ぎて、ようやくそこに辿り着いた自分に冷や汗が出ています。

 

「霞堤」は土木用語にしては文学的な表現であり、多くの人の関心を集める用語である。

この一文から、筆者もまた葛藤されていたのだろうかと想像しました。

 

 

 

 

 

 

 

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